ビハインド・マスク



   8

 レギオンに大きな借りを作った代わりに、その後のフラッグは安定した演技を続けていた。
 やがて死んでしまう教え子に、無駄だけど無駄じゃない授業を受けさせ、たまにそのことでギクシャクしながらも、それが非常にラークらしい言動だったり。
 クレアも裏路地の一件には触れていなかった。去り際につぶやいた『忘れてください』の言葉を、意外と素直に聞いてくれたのかもしれない。
 レギオンにただ感謝しつつ、期限の一ヶ月も終わろうとしていた。
 ――そして、クレアの余命も。
 号泣する準備は、いつでもできていた。
 執事の話だと、割と体調がいいため、もう数週間くらいもつかもしれない、とのことだった。
 本当は最期ぐらいラーク本人に代わって欲しかったので、できればクレアにその時まで生きて欲しいと思った。
 そして最終日。
 クラリーネから、
 『今日が終わったら戻ってらっしゃい。部屋の物はそのままでいいわ』
 という報告があり、いよいよ気も引き締まる。
 そして最後もいつも通りに、フラッグは家を出た。

   *

 クレアの勉強部屋に入ると、クレアは窓の近くで外を眺めていた。
 席に着いて待っていることが多いので、フラッグは少し首をかしげる。
「こんにちは。何か見えますか?」
 フラッグが入ってきても微動だにしないクレアの背中を、ぽんとたたく。
「――?」
 違う。クレアは窓の外を眺めていたんじゃない。
 窓の外は、血の海だった。
「クレア!今誰か――」
 身を翻そうとした、でも一瞬だった――クレアはフラッグの袖を掴み、握りしめて離さなかった。
「ちょ、クレア!」
 クレアが振り向く。
 口の周りが鮮血でひどい。
「大丈夫、もう収まったから」
「でも…」
「いつものことだよ。先生の前では初めてかもしれないけど」
 そう言って、窓辺の赤いカーテンで、口元の血を拭いた。
 ――いいのか、そんなもので拭いて?
 顔に出てしまったらしい、クレアは上目遣いに見上げて、
「先生、知らなかった?この離れのカーペットやカーテン、とても大きいから一年に一回しか洗えないの。赤の配色が多いのは、いつ、どこで私が吐血しても構わないように――」
 叫び出したいくらい、悲しかった。
 赤のカーテン、赤のカーペット、そして赤煉瓦。縁取りに使われる金色は、赤の毒々しさを誤魔化すためのもの。よく考えれば分かりそうなことだ。でなけりゃ、何のための離れか。
 ここはクレアの別荘のような場所ではなく、むしろリスクのある身体を背負ったクレアを、本家から体よく追い出すための離れなんだ。
 気付かない事は山のようにある。彼女は、人と違う時間を生きているんだから。
「先生、お願いがあるの」
 フラッグは黙ったまま、その先を聞こうとする。
「今日だけ一日、外に付き合って。先生と行きたいところがあるの」
「――」
 しまったと思ったのは、頷いた後だった。

   *

 クレアの手をとって、フラッグは中庭を抜ける。
「大丈夫、この時間はメイドさんは屋内で仕事してるから」
 あたりをきょろきょろ見回していると、クレアが言った。
 本来なら、授業はとっくに始まっている時間。
 クレアを連れ出す所なんか見られたら、ラークの信用問題だ。
「そこの隅だけ、垣根が薄いから」
 赤煉瓦の道を外れ、垣根の隙間を抜け、二人は離れの外れまできた。外周はぐるりと、黒の格子で囲まれている。
「ここから登るの」
 クレアが案内したそこには、メイドさん用の掃除道具入れがあった。直方体で、背が高いタイプだ。
 そして、そのすぐ横に流し台。
 まずスチール製のそれに足をかけ、次は流し台の蛇口の上、流し台のてっぺん。
 そこまで登ると、掃除道具入れの上まで、容易に足が届いた。
「昔、よく抜け出して怒られたっけ」
 掃除道具の上に登ると、格子はもう、見下ろせる高さになっていた。
 フラッグが先に、ひょいと飛ぶ。
 すとっ。
 二メートル強、といったところか。
 フラッグは見上げ、クラリーネが裾を気にしながらえいっ、と飛び降りる。
 すたっ。
「へへ、まだ腕は鈍ってないかな」
 フラッグが手を貸すまでもない、クレアは慣れた動作で鮮やかに着地した。
「どこへ?」
 フラッグが問う。
「いいからいいから」
 クレアは悪戯っぽく笑って、フラッグの腕を引いた。
 瞬間、遠くの入り口付近に執事がいるのを見た――クレアは気付いていない――執事がこちらに気付き、間違いなくフラッグを、クレアを、見た。
 ――しまったか…!?
 ぺこり。
 執事は頭を下げ、すべてをフラッグに任せ、穏やかに笑った。

   *

 ――雲が出てきたな…。
 人の少ない道を選びながら、クレアとフラッグは歩き続けた。
 裾を握られたままだと恥ずかしかったので、フラッグはクレアと手を繋いだ。
 先日の事もある。
 クレアが離れを抜け出すのは、だいぶ日常的なことなんだろう。
 人の多い道を避けて歩いていることが分かり、フラッグはそう思った。
 やがて、ぽつぽつと雨が降り出す。
 クレアの身体には、当然良くない。
 きゅっ。
 クレアが一際強く、フラッグの手を握る。
 ――分かってるよ。
 どうせ、最後だ。
 とことんクレアの好きにさせよう、そんな思いがあった。
 何も言わず、二人は歩き続ける。
 雨は本降りになり、当分止む気配は無かった。
 路上販売をしている人は店を畳み、道を歩く人は屋根を求めてさまよった。
 やがて、この道を歩くのが二人だけになる。
「う…」
 クレアの足が止まり、フラッグに顔を背けて、道ばたにしゃがみ込む。
「ぐはあっ!うあっ、はあっ、はあっ」
 クレアのしゃがみ込んだ辺りを中心に、道に鮮血が広がる。
 雨に溶け込み、やがてそれは地面に染みこんでいく。
 立ち上がり、何も言わずクレアは歩みを続ける。
 フラッグも、もう何も言わなかった。
 三度目の吐血の後、やがて二人は一つの川沿いに突きあたる。
 川は増水して、ごうごうとうねりを上げていた。
 近くに橋がある。
 増水した時を考えてのことか、その橋は山のように盛り上がった、放物線の形をしていた。
「はあ、はあ、はあ」
 着いたらしい。二人とも、びしょ濡れだった。
 クレアはその橋の中腹に上がり、手すりから川を覗く。
「ここ…覚えてる?」
 悪いが、資料に無かったので、フラッグは首を振った。
 クレアは手すりに両手をかけたまま、はは、と笑う。
「当たり前だよ。その時は先生、私の事知らなかったもんね…」
 盛り上がった橋の上からは、川の向こうがよく見渡せた。
 クレアは続ける。
 口元の血は、とっくに雨に流されていた。
 その代わり、クレアの顔からは生気が失われている。
「ここで私、先生と一緒に虹を見たことがあるんだよ。昔の事だから、分かんないか」
 本人だったら思い当たる節があるんだろうか。
 しょせん偽物のフラッグは、居心地の悪さを感じる。
「ちょうど、こんな雨の後でさ…」
 声の調子が低く、喋り方が眠たそうな人のそれになっていく。
 時間が無い。
 下を流れる川の音は、二人の心を急かせるばかりだった。
「あの時からだった。先生、…ラーク。私は、ずっとラークが好きだった」
 ああやっぱり、と心の中で誰かが言った。
「私の身体の事を知っても、いつも通りに接してくれたのはラークだけだった。他の人なんか考えられない。だから、付き合ってください」
 定番のセリフの後、クレアはぺこり、と頭を下げた。
 ――あと一日待ってくれ。
 そう言えば、簡単だった。
 あとはすべて、代わりに本物のラークがやってくれる。
 偽物の時間は終わる。
 でも、その一日すらクレアには無い。
 どうせ付き合うと言っても口だけだ。
 そんな時間、クレアには残されていない。
 嘘をついても、それがバレるまで、クレアは生きられない。
 どう答えても、現実は変わらない。
 ごうごうごう。
 雨は強さを増し、川の水音は強くなっていく。
 時間がない。
 すべてが終わる。
 最後にフラッグは考えた。
 ――ラークだったら、
「ごめん」
 どどどどどどど。
 水の流れは勢いを増し、二人の足下を通り過ぎていく。
 濡れた前髪が邪魔だったが、かきあげる気にもなれない。
 クレアの前髪も、濡れて顔のあちこちに張り付いたままだ。
 やがて、
「やっぱり、そっか」
 クレアの口元が、笑った。
 クレアが、左右に縛った髪をほどく。
 そしてクレアはやおら右手を自分の耳元にやって、
 べりりりりり。
 仮面を脱ぎ捨てて、フラッグの知っている人になった。
 それは、クラリーネだった。



次ページへ  / / / / / / / 8 /


TOPに戻る