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ビハインド・マスク
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5
ラークとしての生活は半月と少しが過ぎ、フラッグは次第にラークとしての自分にうち解けていった。家庭教師は順調で、ほとんどボロを出さずに続けられている。
今さらながら、人の頭脳はよくできている。そいつになりきることで、思考回路そのものまでをそいつに似せることができる。フラッグの演じるラークは、もはやもう一人のラークで、偽物と呼ぶにはあまりに精巧過ぎた。
それにはフラッグの天性の素質もあったが、フラッグの場合はやはり、天才を鼻にかけないところが、天才だった。
そんなフラッグの目下の心配事はというと、せいぜい自分がクレアに懸想をかけてしまい、演技が濁ることぐらいだった。もっとも、自分以外の人間すべてを手玉にしてきたフラッグの経験上、それが杞憂であることは目に見えていたが。
ラークの関係者はそのすべてが欺かれ、すべてはフラッグの思惑通りに動いており、それを知るのはフラッグ一人だった。
「ね、先生」
「はい?」
昼休み。
いつものカフェテラスで、クレアが唐突に言った。
「今日は早く終わって、この後出かけない?」
「もちろんダメです。外出は禁じられているはずでしょう?」
ラークはお堅い性格だった。
たまにこんな事を申し出ることもあると資料にあったので、フラッグは間髪入れずに返答した。
「だって…先生と外に出たいなあ…」
「外に出て何かあったら、治るものも治りませんよ。少なくとも僕は手伝いません」
治るものも治らない。
何故だろう、自分の言葉に少し胸が苦しくなったのは。まさか、いまさら罪悪感でもあるまいに。
「はあ…私はカゴの鳥…」
しゅんとうつむくクレアに、フラッグは聞いてみたくなる。
「どこか、行きたい所でもあるんですか?」
彼女にとっては意外な質問だったらしい、クレアはしばし逡巡した後、
「橋…」
と呟いた。
「橋?」
トーヴェの街には、一本の川が流れている。橋と言えばそれしかなかった。
「うん。昔…私がまだ両親と同じ屋敷で暮らしてた頃、行ったことがあるの」
うつむいたまま、クレアは少し懐かしそうに言う。
「何か、特別なことでもあったんですか?」
「…うん」
とだけ言って、クレアはそれ以上その話をしようとしない。
「何があったか…聞いてはいけないんですね?」
クレアは困ったような顔をして返事に詰まったので、
「すみません。結構ですよ」
軽く首を振って、フラッグは話題を移した。
そして、はたと気付く。
今の質問は、ラークの言葉から出ていない。
ラークを装って、フラッグが聞いた質問だ。
――少し…、おかしくないか、僕…?
*
「お疲れさまです」
そして次の日の夕方。授業を終え、離れを出て家路を急ぐフラッグに、庭先で執事が声をかけた。
件の人情話の一件から、執事の態度は非常に切実なものになっている。
騙している側のフラッグとしては、申し訳ないが。ひどい話、フラッグはもうその執事の名前を忘れていた。
フラッグは軽く会釈して、門をくぐり、家に帰ろうとした――
「あ、いけない」
そこで、足を止めた。
「どうしました?」
ペンケースが、中庭に置きっぱなしだ。
というのも、休憩時間の折、クレアが難しい質問をしたのがいけなかった。
金と株と人脈と、それらの社会構造に関する質問だったのだが、この手の分野は説明しようとするとどんどん話が広がってしまう。それに答えようと言葉を重ねるうちに収集がつかなくなってしまい、クレアの顔に難しい質問を何気なくしてしまったことに対する後悔の色が浮かび、かといって聞かれたラークも答えないわけにはいかず、クレアもここまで説明されて質問を撤回するわけにもいかず、引っ込みがつかないお互いが向き合ったまま『うわー気まずいなあ』という気分になってきたところ、口でする説明を億劫に感じたフラッグはいったん部屋に戻り、紙とペンでもって図解することにしたのだ。
「すみません、ここから中庭に入ってもよろしいでしょうか。ペンケースを忘れたみたいです」
「どうぞ。館の者に探させましょうか?」
「いえ、場所は分かってるから大丈夫です」
言って、フラッグは離れの建物を回り込むように赤煉瓦の道を歩き、いつもの中庭へやってきた。
本当は離れの中を直進した方が近いのだが、忘れ物を取りに『失礼します』と言ってクレアの部屋を通り抜けるのも馬鹿らしい。フラッグも、たぶんラークもそう考えた。
夕日を浴びる中庭はいつもと違う雰囲気が漂っており、人のいないカフェテラスはもの寂しい感じがする。
昼間座っていた席に、フラッグのペンケースは無い。きっと気を利かせた館の誰かが落とし物として処理したのだろう。
危惧した通りだった。
――困ったな…。
あれは自宅で勉強する時にも使うので、今日中に欲しい。
クレアのベランダに目をやる。
…ひょっとして、クレアが?
その可能性は高い。
――サロンの裏手から入るのって、失礼かな…。
貴族というだけで、価値観そのものに微妙なズレがある。距離が近いからといって、こちらの常識で接すると途端に溝ができかねない。
箱入りなクレアなら特にそうだ。普段あたりまえにしていることが、彼女の中では信じられないくらい不作法な事なのかもしれない。
――でも、クレアだしなあ…。
甘い考えがよぎる。
いや、しょせんクレアとラークは、飲食店の店員と常連、ぐらいの仲なのではないか。最近の話とかしたりする仲でも、それは常連が財布を持って店に来る、という前提の上で成り立った関係で。
常連が店の裏から不法進入したら、その関係はプッツリと途絶えるのではないか。
ならばこそ、クレアとラークが最も良い関係でいられるためには、お互いが一歩離れた状態でいるのが一番なのであり、だから――
そこまで考えて、フラッグは気付く。気付いて、苦笑しそうになった。
――ラークだったら、ここまで気が回らないな。
本人には失礼だが、たぶんフラッグの判断は正しい。
無限にある回答の中から、ラークが選びそうなものを選び取っていく。それは、知人でもないフラッグにとって、果てしなく難しいことだった。
裏手に、足を踏み出す。
ガラス戸を叩くわけにはいかないので、それを開け、クレアを呼んだ。
「すみません、クレア」
返事はない。
「クレア?」
首を伸ばして部屋を見回すと、サロンは無人で、勉強部屋、寝室の扉は両方閉ざされていることが分かった。
――仕方ないな…。
「失礼します」
床に上がり、フラッグはまず勉強部屋の方を探そうと思う。
「?」
ふと、誰かの声がした。
フラッグが振り向いたのは、寝室の方向だ。
――こっちか?
扉に近づくと、中の声がやや聞き取れた。
「――」
引き返せ。今ならまだ間に合う。
自分の中の誰かが、そう言った。
僅かに胸の痛む思いをしながら、静かに目を閉じ、それでもフラッグは、その戸をそっと叩いた。
声が止み、鼻をすする音がして、
「誰?」
と、凛とした声でクレアが言った。
「ラークです。ペンケースを忘れたので取りに戻ったんですが…開けてもいいでしょうか?」
答える代わりに足音が近づいて、眼前の戸がキイという音をして開けられた。
「………」
――ついさっきまで会っていたのに。
困ったことに、演技をする必要がなかった。ラークと同じぐらいフラッグはクレアの事を心配していて、ラークと同じぐらい、フラッグは彼女の親身になりたかった。
「なぜ泣いていたんですか?…僕が聞いてもいいでしょうか」
またもクレアは無言で、答える代わりに戸を閉め、フラッグを部屋に入れた。
そして言う。
「先生…バナトールに何か言われた?」
――ああ、執事のことか。
「…何のこと?」
「私がもうすぐ、死んじゃうってこと」
「っ」
一瞬、よろめきそうになる。
「やっぱり。知ってたんだ」
そう言って、クレアは自虐的に笑う。
――いや、僕が驚いたのは――
なんで、気付いたんだ?
館の者の誰かが教えたのか?
一体、誰が、そんな――。
意を介したのか、クレアは言う。
「分かるもの。私、子供じゃないわ。先生以外の人、…なんか、みんな変。妙によそよそしくて、…まるで、『いつも通り』を、無理矢理…装ってるみたいで…」
また溢れそうになった涙を肘で拭き取り、クレアは、
「先生だけだもの。いつも通り、…変わらずに、私に、接して、くれたの――」
涙声は途切れ途切れに、信じられないことを言った。
完璧な偽装。
彼女の身体を知りながらも、いつも通りであることを装った。
馬鹿だ。
小手先ばかり気にして、一番肝心なことを失念していた。
彼女に余命があることを、今のラークは知っていたんだ。
それを含めた上で、ラークを装わなきゃいけなかったのに。
誠実なラークが教え子の余命を聞いて、普段通りでいられるはずがない。何ひとつ順調ではない、最初にクレアに会った日から、僕は勘違いしたまま演技をしていたんだ。
クレアの肘は拭いた涙でぐしょぐしょになり、流れる涙はもう止まらなかった。
どん、とクレアの顔がフラッグの胸元に押しつけられる。
そしてクレアはフラッグの衣服に顔を埋めたまま、泣きながら、叫んだ。
「嬉しかった!嘘でもいつも通り、いつか、いつか治るって、そう言ってくれたから!」
――最悪だ。
だから。
クレアに、こんな想いまでさせてしまった。
ひしっ。
クレアの細い肩を、抱いた。
「ごめん」
「何で謝るの…」
「ごめん。でもそれ以上は言えない」
力を込めれば折れてしまいそうな、細い身体だった。
――ラーク本人は、何をやってるんだ…。
お前でなきゃ、駄目なんだ。
そういう局面なんだ。
お前が帰ってきたら、伝えなきゃいけない事があるんだ。
頼む、早く戻ってきてくれ。
本当にもう――
クレアの泣き顔を斜に見下ろしながら。
ラークの仮面を被った、フラッグの顔が歪む――
――僕はもう、どうかなってしまいそうなんだ――。
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