ビハインド・マスク



   3

 初任務の朝。
 家庭教師の仕事は昼からだったが、夜に弱いラークは午前中は自分の研究をすることにしているので、フラッグもその時間に起き、研究の真似事をした。
 もう一度、今日授業で教える範囲の予習をしようかとも思ったが、必要以上の予習は仇になると思い、開きかけた教科書を閉じた。
 十一時ごろに部屋を出、昼ご飯を買うため近くのパン屋へ向かう。
 ラーク本人の食生活と好みに合わせて、パンを買うときは計三つ、そして中には必ずチーズを含んだパンを一つは混ぜるように買った。
 さらにラーク本人は、家からパン屋まで片道で七分らしい。時計で確認したら、ラーク本人の歩幅が自分よりも少しだけ大きいことに気付いた。
 ――気をつけよう…。
 昼になり、時間通りにレーゼ家へ向かう。
 ラークが教えているのは、クレアという名のお嬢様だった。
 十六歳の誕生日を迎えたばかりらしいが、箱入りなせいで世間に疎く、時おり子供っぽさが目立つ、とのこと。
 生まれつき体が弱く、彼女の自室はレーゼ家の離れにある。そのためラーク本人も、レーゼ本家にはまだ足を踏み入れたことがないらしい。
 離れに向かうと普段通り、入り口の門にクレアお付きの執事(名前は確かバナトールだったが、ラークはおじいさん、と呼んでいる)が正装をして立っていた。
「こんにちは」
 いつも通り、一礼して門をくぐる。
 執事も、ゆっくりした動作で頭を下げた。
 ――よーし、平常心平常心。バレないバレない…。
「先生」
「はい?」
 不意に、執事がラークを呼び止めた。
 ラーク本人にしても、ここで執事に呼び止められるのは意外な事だ。
 ――しまった、返事するのが少し早すぎたか…。
 心の中でそんな些細な事に舌打ちしながら、ラークは足を止め、執事に向き合った。
「残念ですが、もう家庭教師は結構です」
「もうバレた!?」
 ――し、しまった!声に出た!
 執事は眉をひそめながら。
「…は?すみません、もう一度ゆっくり…」
「いえいえいえいえ!空耳です!そそそ、それより、その、それはあの、どういう意味で?」
 狼狽して、声が震える。
 だが、誠実なラークが解雇を突然言い渡されて、狼狽するのはとても自然な事だ。そういった意味では、絶妙な演技だとも言える。『もうバレた!?』は迂闊だが。
 ――でも聞き取れなかったみたいだ、ああよかった。
 執事は目を逸らすと、空を見上げて言った。
「驚かれるのも無理はありません。…ですが、お嬢様はもう、勉強をする必要が無いのです」
「…なぜです?私に分かるように説明してくれますか」
 息を整え、ラークは落ち着いて言う。
 執事は声を落とし、そっと告げた。
「…お嬢様は、病を患っておられます。今まで、対外的には治療中だということにしてきましたが…お嬢様の病は、治る見込みなどないのです」
「!」
 ――マジか?
「医者が言うには、余命はもう一ヶ月が精一杯の所だと…」
 ――そんな、代わったその日に、そんな展開なんて――
 おかしい。
 偶然にしては、出来過ぎてる。
 まさか、依頼人はこれを予知してマスクに代理を求めた?
 だとしたら、なぜ?なんのために?
「なので、もはやお嬢様には残された日々を精一杯、生きていただきたいのです」
 ――っと、いかんいかん。とりあえず考えるのは後だ。
「それは…クレアは知っているのですか?」
 重々しい口調で、ラークは言う。
「いえ…お嬢様には今まで通り、治療中だと…館の者はほとんどが知っておりますが、お嬢様に告げられる者はおりません。人生これからだというのに、そんな残酷な事、とてもとても…」
 執事が涙を堪えているのが分かる。
 ――僕も泣いた方がいいのかな…。
 家庭教師なので厚かましいかと思い、ラークは目を潤ませる程度で止めておいた。これぐらいの演技は朝飯前だ。
「ショックです…クレア、いつも病気が治った時のことを夢見ては話してくれますから…」
 おじいさんには刺激が強すぎたらしい、それを聞くと執事は両肘を顔にやり、マジ泣きしてしまった。
 幸い、これでフラッグも落ち着いて考えるリミットが与えられた。
 ――に、しても…。
 これで解雇されて、いいものだろうか?
 依頼主に対しては、これでも任務を果たしたことになる。依頼の期間中に家庭教師を解雇されて、あとはラークとして自活していた、と報告すればいい。
 しかし、僕は今、任務達成というよりもテストを受けにここに居るわけだ。
 これで『ただいまー終わったよー』とか言ってマスクに帰ったところで、あのいけ好かない当主は僕を認めてくれるだろうか?
 二次試験、ということにでもなったら、悲惨だ。
 せっかくあれだけの資料を頭に詰め込んだのだし、それを無為にしてしまうのも気が引ける。
 ラークは常識的で、真面目な人物だという。
 なんとか上手いこと言えば、任務の続行も可能なのではないか。
 ――うん。よし。
 じゃ、そういうことにしよう。
「おじいさん」
 努めて優しく、ラークは執事に話しかける。
 執事の目には、自分が泣きやむのを待って、ラークがそっと語りかけたように映ったことだろう。
「クレアは、そのことを知らないんですよね?」
「はい…」
「僕の驕りかもしれませんが、クレアは僕の授業を楽しそうに受けてくれます」
 これは、ほぼ事実だった。
「きっと僕が辞めても、クレアは喜ばない。むしろ空いた時間を持て余して、寂しがるはずです。残された時間が少なくても、僕は最期までクレアに勉強を教えたい」
 ――大丈夫、ラークは大体こういう奴だ。
「しかし…、お気持ちはありがたいのですが、それではあなたにまで苦しい思いをさせることになってしまいます。レーゼ家の外にまで、悲しみを広げたくはないのです」
「いいえ、確かに僕はレーゼ家の外の者です。でも、クレアの家庭教師として、その責任から逃げるのは嫌なんです。その気持ちには中も外も関係ない。お願いです、僕に最期まで彼女の家庭教師をやらせて下さい」
 ――声量はやや抑え目に、語調は強めに。いい感じだ。
 執事は感極まった顔で、ラークを見上げる。
 一介の家庭教師にここまで熱弁されたら、そりゃ感動もするだろう。
「………ありがとうございます…、屋敷の方には私から言っておきます。時間を取らせてしまいました、さあ、どうぞ」
 言って、執事は門の奥へとラークを促す。
 ラークは会釈して、その門をくぐった。
 ――ふう、上手くいったみたいだ…。


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