ビハインド・マスク



   6

 翌日も家庭教師は続き、クレアはいつも通り勉強部屋で待っていた。
 呆れるほど彼女は立ち直りが早く、授業そのものには何ら変わりがなかった。無論、それがクレアの強さ故であることはフラッグにも、たとえそれがラークだったとしても察しはついただろうが、それをおくびに出すような真似はしない。
 自分の最期をひしひしと感じているクレアに、言葉も無かった。
 フラッグは知っている。人の寿命に対して、慰めの言葉は存在しない。
「じゃ、こことここはやっておいてね」
 普段通りに授業を終え、明日は休みか、と思いながら部屋を出ようとした時。
「先生、辞めるように言われませんでした?」
「………」
 箱入りだという概念が強いせいか、クレアの発言が時々やけに聡明に感じられる時がある。
「うん。言われたよ」
 言うと、クレアは目を細めて、
「ありがとう」
 そう言って微笑んだ。

   *

 『本物のラークからは何の連絡もありませんか』
 ラークの家に帰り、フラッグはクラリーネにそう聞いた。
 ラークに早く帰ってきてほしい。いろんな意味で、そう思っていた。
 メモ帳を閉じようとすると、予想以上に早く、返事は書かれた。
 『ない。それより暇なんだけど。なんか話そ』
 なに、こいつ。
 最初会った時からそうだ。この当主、訳が分からない。
 つかみ所がないのとは少し違う、はっきり言って、少し変だ。
 長いため息をつくと、フラッグの返事を待たず、その下にさらさらと彼女の文字が書き込まれていく。
 『あんたさ、ここへ来る前は何やってたの?』
 勘弁してくれよ。こっちは疲れてるのに。
 『そういう当主は?』
 今度は意識して、汚い字で書いた。
 『答えるわけないでしょ。そんなの言う方が馬鹿げてるって』
 ぱたん。
 メモ帳を閉じた。
「はぁ」
 ――明日は休みか。
 ベッドにごろんと横になっていると、またそのまま寝てしまいそうだった。
 先週の休みは心労のせいで、一日中寝ていた。
 クレアがラークに惚れてるんじゃないかとか、当のラークはこのまま帰ってこないんじゃないかとか、変なことばかり考えていた。
 ここへ来てから、妙に落ち着かない。いや、そりゃ他人のフリをしているんだから当たり前のことなんだが、それでも何かが腑に落ちない。
 何故だろう。自分はこれだけ、ラークの周辺の情報を手に入れたというのに。
 心のどこかで、まだ知らない何かがあるような、そんな気がしていた。
 どん、どん。
「はーい」
 誰かが戸を叩いていた。重い腰を上げ、玄関に向かう。
 開けると、向かいの部屋に住んでいるおじさんだった。
 手には小鍋を握っていて、そこからは煮豆のいい臭いと湯気が立ち上っている。
「いやあ、これな。また作り過ぎちまって、良かったらもらってくれや」
「あ、すみません、いつもいつも。ありがとうございます」
 週に二度くらい訪れる来客は、すべてがこのおじさんだった。たまに作り過ぎたと言っては、ラークに夕食を分けに来てくれている。
 白髪はまだ頭全体を覆っており、腰を曲げたような歩き方はいかにも初老という感じがする。
「すみません、もらってばかりで」
 言うと、おじさんはいつものように手を大袈裟なくらいぶんぶんと振って、
「いやいやあ、これはわたしが勝手にしてることだからなあ。ぜんぜん、な、本当にぜんぜん気にしなくていいからさ。なあ」
 つっかえながらも、早口で言いきる。
 幼い子供が好きな子に何か贈り物でもしたような、微笑ましい照れ方だった。
 もう一度頭を下げて、フラッグはありがたくその煮豆をもらった。
 ――こうしてみると、ラークも悪い奴じゃないんだろうな…。
 扉を閉め、まだ熱気を蓄えた小鍋をキッチンまで運びながら、フラッグは思う。
 やっぱり、任務初日から大変な事になったのは偶然で、
 ぱく。
 ――全部、僕の思い過ごしなのかなあ。
 うん、うまい。

   *

 トーヴェの街の道路はどこも細く、建物も無計画にレイアウトされているため、非常にゴミゴミしている。
 しかし、街行く人にはみな活気があり、フラッグはそんな所に好感がもてた。
 三度目の休日、フラッグはトーヴェの街を歩いていた。
 目指しているのは、ラークがたまに暇を見つけて行くという、細い路地にある古本屋だ。
 あんまり興味は無いが、外に出るのも気分転換になるかと思い、フラッグはいつもよりリラックスして外を歩いていた。
 ――それにしても、けっこう骨の折れる仕事なんだな…。
 正直言うとフラッグは、マスクの仕事を少しなめていた。
 どうやらマスクの構成員は、一筋縄でいかない奴ばかりのようだ。実際やってみると、長期間嘘をつき続ける事は精神に予想以上の負担がかかることが分かる。
 目指す古本屋はだいぶ不便な所にあり、フラッグは記憶を頼りに細い路地を歩いていた。まさか、常連のラークが地図を片手に店を探すわけにもいかない。
 細く薄暗い路地は、石や煉瓦造りの建物が立ち並び、建物と建物の隙間がそのまま道と称されるようになったようだった。
「…って言ってるでしょ!」
 ふと、曲がろうとしていた角の奥で、女性の張りつめた声が聞こえた。
 そこは進行方向にあるので、フラッグはそっと角から片目だけ出して様子を窺う。
 目を疑った。
「…のお嬢様がこんなトコに何の用だよ!」
「あか抜けに来たのか、ああ?」
 ――クレア…!
 壁に背をつけたまま、クレアは路地の隅に座り込んでいた。腰が抜けているようにも見える。
 それを囲む男連中の背中は三つ。誰しもが鎖骨の出っ張った、それでいて筋肉だけはありそうな、やせた狼を思わせる体つきをしている。ラフで簡素な服を着ているあたり、出生に恵まれていないのが一目で分かる。
 何の武器も無くても、フラッグに勝算はあった。
 しかし今のフラッグは、ラークという名前の学者だ。
 ――どうすれば。いや、
 もしラークだったら?
 誠実だという彼だったら、自分の力量もわきまえず止めに入るかもしれない。力及ばずボコボコにされて、自分の無力を噛みしめる、そんな奴かもしれない。
 フラッグが人の殴り方を覚えたのは、殴られ方を身につけた後だ。適当に相手の気を済ませ、最低限のダメージで負ける方法も知っている。
 怖いのは、反射的にカウンターを出してしまうことだ。
 弱いなりに抵抗し、それでいて負ける。
 そこまでの演技が何の練習もなしにできるかどうか、フラッグは自信が無かった。
 ――見なかったことにすればいい。
 ラークという男は、今日ここへ来なかった。
 クレアが絡まれているのも知らなかったし、もし見つけたなら助けたろうが、それを知らなかったので助けようも無かった。
 クレアもラークの姿に気付いているわけではない。今のうちに立ち去ろう。わざわざ自分の正体がバレる機会を作ることもないし、それに、
 ――僕には、クレアを助ける理由がない。
 クレアを騙すために来て、勝手にラークを演じている、客観的に見れば最低な事をしている。そんなことは分かってる。
 だから、クレアが笑っても、一緒に笑う権利もなければ、クレアが泣いても、共に泣く権利もない。
「きゃあ!」
 がっ、という肉を蹴る音がした。
「街の高いとこから俺たちのこと見下ろして、さぞいい気分だろうなあ」
「病弱なくせにノコノコ来てんじゃねーよ」
 がっ、がっ、がっ。
 クレアの身体など知ったことではない。熱気を帯びた三人の目は、そう言っていた。
 ――まずい――
 そしてフラッグは、クレアに目を背ける。
 クレアにとって心の支えはラークだけで、しかもそのラークは偽物で、しかもそれが誰でもない自分の事で、気が付いていないだけで、本当はクレアは、一人だけ独りで――
 目を閉じる。
 早く離れようと思った。
 身を翻し、フラッグは元来た道に歩き出した――
「いい加減に屋敷ごと消えろや、この――」
 耳を塞いで、走り去れば良かった。
 そうすれば、自分一人が自己嫌悪に陥るだけで済んだ。
 悪人に成りきることができれば、すべてをマスクのせいにできた。
「――できそこないのくせに――」
 理性が働かなくなるのは、こういうことなのか。
 声もなく。
 ――
 ざっ。
 気付けば、目の前にある男の右腕を後ろから音がするまで折り曲げ、攻撃態勢に入った二人目の男に詰め寄り、その喉を握りつぶし、三人目の男に後ろから頭部を殴られながらも、二発目を受け流しつつ、振り向きざまに胸ぐらを掴んだまま押し倒し、馬乗りになったまま顔面を何倍も何倍も殴り返して、そして、
 ――あーあ、やっちゃったんだ――。
 麻痺した理性は、ひどく客観的に自分のことを見下ろしていた。
「せ、先生…?」
 先の二人が逃げ出し、鼻血で顔をぐしゃぐしゃにした三人目はフラッグの下で気を失い、はあはあという荒い息づかいだけが路地の静寂に響くだけになった時、やっとクレアが言葉を口にした。
「ラーク…先生ですよね…?」
 はあ、はあ、はあ。
 ――何やってるんだ、僕は…。
「先生っ!」
 クレアが、フラッグの胸に抱きつく。
 その瞬発力で逃げれば良かったのに、と思うくらい、一瞬だった。
 細身の体におびえた肩を見下ろしながら、フラッグは我に返って、
 とさっ。
「え…?」
 自分の肩にかかったその両手を引きはがし、そしてクレアは再び尻餅をついた。
「今のことは忘れてください」
 ラークの声なのか、フラッグの声なのか、自分でもよく分からなかった。
 それだけ言って、フラッグはその場から逃げ出した。
 本当はラークの仮面も脱ぎ捨て、フラッグの名前からも逃げ出したかった。

   *

 『すみません、任務は失敗です』
 そんな出だしで、フラッグは手帳に今日の出来事をクラリーネに伝えた。
 長い文章を書き終わった後、ペンを置き、ため息をつく。
 はあ。
 運が悪かっただけかもしれない。でも、自分はもう駄目だ。
 理性の決断に、この体が従えないということが分かった。
 演技力のために気持ちを捨てきれない、要は中途半端な人間で。
 自慢の演技力も、仕事にできるほどのものじゃ無かったんだ。
 相手がクレアでなくても、この未熟さは同じことだっただろう。
 これからどうする?
 また、元の名前に戻るのだろうか?
 それじゃ、今までの時間は。フラッグとして過ごした時間は、何だったのか。
 一番安全なはずの休日に、すべてを自分の手で壊してしまって、しかもその行動に正義は無くて、自分一人がすべて悪くて、もう、最悪だった。
 手帳の背表紙が赤く変わる。
 のろのろした動作で手帳を開いた。
 『字が汚くて読みにくい』
 笑えなかった。
 ペンをとり、その下に書き込む。
 『この手帳と、自室の鍵は返します。マスクに戻るつもりはないので、この部屋に置いていってもいいですか』
 すぐに、返事は書き込まれた。
 『アホか、最後まで続けなさい。意外と先生強いんですねー、ぐらいにしか思ってないわよ、クレアは』
 『いえ、そうじゃなくて、もう、』
 そこで一旦ペンを止める。
 ――自信を無くしたんです。
 相手がクラリーネでなければ、正直にそう書けたかもしれないが。
 『とにかく、テストは放棄させてもらいます。すみませんでした』
 最後まで書き終わらないうちに、『とにかく、テストは――』の文頭から、ぐしゃぐしゃと文が消されていった。
 『ちょっ、何するんですか!』
 下の行に慌てて書く。
 『思い上がらないでよ、素人にそこまで私は望んじゃいないわ。テストはまだ終わってないんだから、明日も行って、フォローしてらっしゃい。こういう能力もテストしてるんだから、』
 クラリーネの文章が綴られている途中だったが、フラッグは、ひときわ大きく書き込んだ。
 『嫌です』
 これ以上、決意を覆すのは嫌だった。
 どんどん楽な方へ流されてしまう。そんな気がした。
 クラリーネの文は書きかけのまま、そこで止まっている。
 ページがもう無い。
 最初の一ページ目は、消えかかった文章に大きく書かれた文字、自分の汚い字が相乗して、非常に汚れた紙に成り果てていた。
 次のページをめくる。
 パラ、という乾いた紙の音が、やけに耳に残った。
 たぶんお互い、黙ったまま次のページの白とにらめっこしていた。
 よく考えれば、こんな勝手な話はない。
 マスクの一員になりたいと言ってやってきたのに、テストを途中で放り出して、依頼人にもマスクにも迷惑ばかりかけて、それなのに自分は筋を通したつもりでいて――
 やがてクラリーネが何かを書く。
 『好きにしなさい
             バカ』
 手帳を閉じた。
 終わった、と思った。



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