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ビハインド・マスク
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一週間の間、仮の身でありながらもフラッグはマスクの一員として、組織と寝起きを共にした。マスク内で部屋の近い人と知り合って、話せる仲間もそろそろ見つけた、ちょうどそんな頃。
個室に置きっぱなしだった手帳が、その背表紙を赤く変色させていた。
寝起きのフラッグは、目を半開きのままで首をかしげる。
開くと、真っ白なはずの一ページ目に女の文字が這っていた。
『いい依頼が入ったわ。これでテストを行うことにするから、面会室までいらっしゃい』 赤く変色するのは、何かが書き込まれた合図らしい。
『了解。早かったですね』
クラリーネの文章の次の行に、そう書き込んだ。
少しすると、さらにその下に、クラリーネの文字がすらすらと浮き上がってくる。
最初見ると、ちょっとホラーだ。
『こっちもタダ飯食わせるほど楽じゃないですから』
うそつけ。
向かいの部屋の仲間に聞いた話だと、マスク内での給料は、仕事をしなくてもそれなりに贅沢できるだけの報酬があるらしい。仕事が割り当てられたときはその達成度に応じてボーナスが出る、というシステムだ。
働きアリにとっては少しおいしい話だが、要はそれだけ上の方で儲けている、というだけのことだろう。
『はいはい』
あまり見栄えのよくない字で、それだけ書いてぱたんと手帳を閉じると、フラッグは一週間ぶりに面会室へ足を運んだ。
*
「場所はトーヴェ。近場だから分かるわね?」
話の切り口は、単刀直入だった。
「僕の来た方向とはほとんど逆だから、勝手は分からないけど。まあ、街の位置だけならなんとか」
「それで十分よ」
初め来た時と同じように、クラリーネが向かい合った椅子に座り、その斜め後ろにはレギオンが直立していた。
「あなたが演じるのはラーク・リオン。その街の貴族、レーゼ家お抱えの家庭教師よ。初等教本だから問題ないでしょ」
「――使ってる教科書は?」
「預かってるわ。レギオン」
クラリーネが言うと、レギオンは部屋の隅に置かれた木箱の中から、何冊かの本を取りだした。
「ああ、それね」
余裕だ。フラッグはそれらが、対してレベルの高い参考書でないことを知っていた。フラッグ自信は学校に通ったことはないが、その程度の知識は独学で身に付けている。
「期限は最大で一ヶ月。ラーク本人の都合がどれくらい長引くかはっきりしないらしいから、依頼人が早めに帰ってくればそれで任務終了よ」
「ラーク本人の都合って?」
「余計な事を聞かない」
ちっち、とクラリーネは指を立てた。
「はあ。それで、詳細は?」
さっきと同じ木箱からレギオンがものすごい紙の束を取り出し、机にずむ、と置く。
色のくすんだ藁半紙もあれば、分厚いノートもある。
そしてレギオンは、その横にラークという人物のマスクを二つ並べた。片方はスペアだろう、非常に出来がいい。
「表の人間だから、かなり資料があるわ。ラークに限らず、両親、友人、レーゼ家の事についてもだいぶ資料が集まったから。来週までに、がんばって覚えるように」
「…はい」
「言っとくけど、暗記するだけじゃ駄目だからね。ラークと呼ばれたら反応できるぐらいでないと」
「分かってる分かってる。なりきる事なら任せてくれ。トーヴェでどこに寝泊まりすればいいのかも、これを読めば分かるね?」
「ええ、ラークが住んでる借家を使っていいそうよ。わざわざ案内もしないから、一週間後には自分でトーヴェに行って、ちゃっちゃと任務に就くように」
「了解」
*
どさ。
荷物を床に置くと、フラッグはベッドに倒れ込んだ。
部屋は薄暗く、二つのベッドの他には整った勉強机、本棚、奥にキッチン、バストイレに通じる扉もある。
――マスクの個室より快適じゃないか…。
トーヴェまでの道のりは易しかった。むしろ、アジトから森を出る方のが苦労したぐらいだろう。
フラッグは、トーヴェの街に来ていた。ここはラークの借家で、これから最大で一ヶ月、フラッグはラークとして生活する。
部屋の内装を把握してから、フラッグはまず目のつく所に通信手帳を置いた。
すぐに連絡が取れるようにと、クラリーネに言われていたからだ。
さすがに学者の部屋だけあって、本棚が多い。
「…さて、と」
フラッグはベッドから身を起こすと、教科書を開き、明日教える範囲の予習を始めた。 緊張しているのが自分でも分かったが、自分はラークだ。いつも通りに過ごせばいい。明日からも、今までと同じように。
ラークの生活環はこの一週間の猛勉強により、資料で分かる範囲に限っては不安を残さず体得している。フラッグは必要と感じれば徹底的に勉強できるスタイルを持っているので、それは造作もないことだった。
とはいえ演技力の本質はアドリブ。
本番はこれからだ。
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