ビハインド・マスク



   1

 深い森だった。
 空は、木々が蓄えた深緑に覆われ、陽の差す方角すら分からない。
 また一つ茂みをかき分け、少年は道無き道を進んだ。
 厚着をしていることを除けば、少年の装備は貧弱なものだ。荷物も少なく、ただ片手に一枚の紙を、大事そうに握っている。
 もう、目的地にはだいぶ近づいているはずだった。
 少年の目指すところには、ある組織のアジトがある。
 マスク。
 裏社会では名の知れた、替え玉屋だった。
 類い希な演技力を持って生まれた人間で構成され、たとえ相手がどんな人間であろうと、依頼された期間内は忠実にその人物の代わりを演じる。
 その仲間入りを果たすため、少年はこの森に分け入った。
 ガササ。
 元気に生い茂った茂みをまた一つ抜け、少年は現在地を確認する。
 ――おかしいな、この辺にあるはずなんだけど…
 ふと、近くから誰かの声がした。
「!」
 一つ向こうの茂みから聞こえる、それは女の歌声だった。
 マスクの関係者である可能性が高い。
 でなければこんな深い森で、まさか。
 ――上手い歌だな…
 感情の起伏が薄いものの、澄んだいい声だと思った。
 騎士、魔導師、画家、科学者、政治家、それに歌手。マスクは、どんな依頼人の代わりにもなれるよう、幅広い才能を有した天才達で構成されている。彼女も、きっとその一人なんだろうと思う。
 茂みの中で足を止め、草葉の隙間から向こうの様子をうかがった。
 見えた。
 髪の長い、細身の女性だった。
 割と開けた場所で、近くには小さな泉があり、彼女の横顔をその水面に映している。ラフな装いが、細い四肢によく似合っていた。
 一瞬、幻想的な光景にも見てとれた。少年が、彼女の足下を見るまでは。
 ――うわ、カエルだ…。
 彼女の歌に魅せられたわけではないだろうに。その泉のほとり、彼女の足下に、立派なイボガエルが佇んでいた。
 動作が無いため置物のようにも見えるが、あごの所が規則的に波打っているので、生のカエルだと分かる。
 たぶん、彼女は気付いていないんだろう。道を聞きたいのもあったが、まあ、親切心から言った。
「あの」
「!?」
 突然歌が途切れ、振り向きざまに彼女はその素顔を少年に向けた。その目には驚きと警戒が見てとれる。
「誰!?」
「名前は言えないけど、マスクに入れてもらおうと思って来たんだ。別に怪しい者じゃないよ」
 マスクという単語を聞き、彼女の胸の動悸が少し収まる。
「…そう…館はこの方向へまっすぐよ」
 取り乱したことを恥じているのか。彼女は長い髪を掻き上げ、自分の来た道を指した。
 でも、足下にはまだイボガエルが佇んでいた。
 ひょっとしたらこのカエルは忠実な使い魔みたいなもので、彼女と仲良しなのかもしれない。
「カエル、好きなの?」
「は?…食べたことはないけど。鶏肉みたいな味がするらしいわね」
「足下に、さっきから居るよ」
「…?」
 すぅー、と彼女の目線が足下に移る。
 瞬間、耳が割れんばかりの声で、彼女は叫んだ。
 驚いたイボガエルが踵を返し、沼に飛び込む。
 彼女を映していた水面が跳ね、その水滴が少し少年にかかった。
 うわっ、汚い。

   *

 ここで見たことは絶対誰にも言わないでよ。絶対よ。絶対だからね。誰かに言ったら殺すからね。本当だからね。絶対よ。
 歌のうまい変な子の言った通りに進むと、確かにそこには大きな館があった。
 周りを囲む木々は館の外周に合わせて切り取られ、森の中にぽっかりとサークルができている。きっと上空から見られるのなら、目立つアジトなんだろうと思った。
 二階建て強の洋館、といった感じだ。
 コケやツルがその外壁に付いていたが、それなりに清潔感のある建物だった。
 短いスロープがあって、一段高くなったところに入り口がある。
 館の誰かを呼ぶようなものは見あたらなかったので、扉を開けて入ることにした。
 ――おー、豪華だ。
 入り口のロビーは二階と吹き抜けになっており、正面に立派な階段があった。手すりの彫刻が細かく、赤のカーペットが階段の中央部に敷かれている。
 きょろきょろしていると、その階段を一人の男が下りてきた。たまたま通りかかった、という感じだ。
 男は少年を見ても狼狽した様子はなく、平静のまま少年を見据えた。
 階段を下りきると、男は少年に話しかける。
「何用かな?」
 長身の、体格のがっしりした男だった。髭を生やしたら似合いそうだったが、きちんと剃っているため、けっこう若く見える。
「紹介状があるんです、」
 ――ここで雇ってください。
 最後まで言い終わらないうちに、男は少年が手にした紙をすっと抜き取った。
「依頼ではなく…、ここで働きたいと?」
 少年は頷く。
 ぴっ、と紹介状を少年に突っ返すと、男は身を翻して階段へまた向かった。
「ついて来たまえ。一応だが面接する」
 少年は言われた通りにした。
「――そうだ、」
 階段に足をかけたのと同時に、男は首だけを少年に向けて言った。
「ここへ来る途中、女の子を見なかったか?君と、同い年ぐらいの」
「いえ、見てませんが」
「そうか」
 男は再び歩き出した。

   *

 二階は長い通路が右に左に伸びており、それらは構成員の個室なのだと思われた。前を歩く男は正面の階段を上り、三階へ進む。三階は短い通路に右がベランダ、左が面会室となっていることが分かる。
 面会室に促されて入ると、部屋の隅によく分からない書類や本棚が並んでいた。中央にアンティークな机があり、三脚ずつ、洋風の椅子が向かい合って鎮座している。
 奥にまだ部屋があり、その扉の近くには『当主の部屋』と書かれたプレートが貼られていた。面会室の奥が当主の部屋になっているようだ。
「当主が来るまで、ここで待っていてくれ」
 男はそう言うと、元来た道を引き返した。当主の部屋に入らず外に呼びに行ったということは、きっと当主は不在なのだろう。
 少年は椅子の一つにポツンと座ると、深く息を吐き出す。
 ――緊張するな…。
 そこでやっと、自分がいまだに紹介状を握りしめていることに気付いた。
 何となく、広げてみる。
 表にはこの館への地図、裏には紹介状。
「親愛なるナディッシュ様へ、か…」
 ここの当主の、表の名前だった。
 ――こんなところで、役に立つとはね。
 少年は過去に、旅芸人としてあるキャラバンに籍をおいていた。特に芝居を担当した少年の演技力には、長いキャリアと自信がある。
 それ以前の幼少時代からも、少年は嘘を付くのが上手かった。そのことに良心の呵責を感じないところも含めて。
 ――にしても、遅いな。
 最初の緊張も途切れつつある。
 かなりの時間が流れ、やがて、唐突に扉が開けられた。
 はじめにさっきの男が部屋に入ってきて、その後から、当主と思われる人物が姿を現した。
「…」
 当主が眉をひそめ、少しうんざりした顔をした。
 少年も、負けずにうんざりした顔をする。
 そこに居たのは、先刻のカエル女だったのだ。
「…あなたがナディッシュ?」
「ナディッシュは父よ。今は私が当主をしてるの」
 つまり。最近、当主交代があったということだ。
「――そう、…か」
「だからといって紹介状を握り潰したりはしないから安心なさい。何ができるのか、テストぐらいはしてあげる」
 言いながら、当主は向かいの席に座る。さっきの男もその隣に座るかと思ったが、彼は当主の側に立ったままでいた。
「私はクラリーネ。彼はレギオンで、私の片腕よ」
「よろしく」
 レギオンは頭を下げるでもなく、ただそう言った。
「演技力はともかく、それ以外であなたの特技を教えて頂戴。他人より秀でていると思うものをいくつか言ってみて」
 さっきまでカエルの側で呑気に歌っていたとは思えないほど、てきぱきした事務的な口調だった。いや、むしろ歌うことを感性のはけ口としているのかもしれない。
 ややつり目で、背も小柄。失礼だが、当主と言われてもピンとこない。
「…ちょっと、何も無いの?得意なもの」
「あ、いや。あるよ」
 少年は一呼吸おき、話し始める。
「歴史学…特に世界史には、詳しい。勉強したのも最近のことだから、知識も古くないと思う」
「ふーん」
「…それから、武器の扱いは凡人並だけど、体術に関してなら一応の自信はある。主に護衛術なんだけど」
「ほう…」
 レギオンが、感心したような声を上げた。…彼の場合、声だけだったが。
「体術の心得があるのは便利ね。誰かに変装しなきゃいけない以上、依頼人が武器を持たないのなら私たちも丸腰で任務に当たらなければならない。奥の手として護衛力があるなら、危険な任務も任せられる」
 クラリーネの評価を聞いて、少年は複雑な気持ちになった。
 ――危険な仕事は避けたいんだけど…。
「他には?」
 少年は中天に視線を泳がせたが、他の特技は大したものはなかった。
「強いて言えば、多少絵が描ける程度」
「画家は優秀な人が三人もいるのよね。…まあいいわ、テストしてみる」
 そう言って、クラリーネは細い腕を胸の前で組んだ。
「当主、一応は呼び合う名を決めておかねば」
 レギオンが、そっと助言する。
「ああ、そっか。…じゃああなた、フロッグでどう?」
 蛙!
「嫌です」
 ――なんて執念深い女だ。
 少年は挑戦的な口調で却下した。
「呼び合うだけだから何でもいいじゃない、ねえレギオン」
「御意」
 レギオンはクールだった。
「嫌です」
 語調を強めて言う。
 クラリーネの口元が小気味よくつり上がり、
 ――あ、このやろ――
 気が済んだ、とばかりにコホンとせき払いをして、言った。
「じゃ、フラッグで許してあげる。――」
 『さっきのこと、言わなかったみたいだしね』
 口元をそう動かしたが、少年は読唇術の心得が無かったので、その先は読みとれなかった。
 カエルの横で歌ってるのを見られることは、そんなに恥ずかしいことなんだろうか?
「とりあえずは空き部屋を使うといい。テストに向いた依頼が見つかるまで、そこで待機していてくれ」
 レギオンが鍵束の中から一つを取りだし、少年に渡す。受け取った鍵には、部屋番号が彫ってあった。
「それから、これも」
 はい、と言ってクラリーネは一冊の手帳をテーブルの上に置く。
「これは?」
「原理は秘密だけど、うちの魔導師の研究の成果よ。これには対になった手帳がもう一つ用意されていて」
 あれのことよ、と、クラリーネは部屋の隅にある本棚を指さす。
 そこには、これと同じような背表紙の手帳がずらりと並んでいた。
「片方に書かれた文字が、もう片方にも同じように書かれていく手帳なの。その片割れはすべて私があそこに保管してるから、必要があればいつでも連絡がとれるわ」
「へえ…分かった」
「部屋は二階だ、分かるか?」
 と、レギオン。
「はい」
 鍵と手帳。
 二つのそれを持って、少年は席を立ち、部屋を出ようとした。
 がちゃ。
「失礼します」
 少年は常識的な人間だったので、退室と同時にそんな言葉を漏らす。
「じゃあね、フラッグ」
 ぱたん。
 フラッグ…。
「フラッグか…」
 ――冷静になってみれば、けっこう格好いい名前じゃないか…。
 部屋を出、そして少年はフラッグとなった。

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