ビハインド・マスク



   7

 出発は明日にするつもりだった。、
 自分の荷物をまとめながら、何度目になるか分からないため息をつく。
 クラリーネは怒っているだろうし、ラーク本人もこの事を知れば怒るだろう。
 クレアの事は…考えたくなかった。
 もう終わってしまったんだ。
 ――仕方ないか。
 仕方ない。
 帰る場所があるわけでもないが、なんとかなるだろう。
 これぐらいで潰れてしまうほど、線が細いわけでもない。適度な楽観視も必要だ。なんとかなる、死にはしないさ。
 少ない荷物をまとめ、ベッドの脇に置く。
 ふと、鏡に映ったラークの顔に、違和感を覚える。
 ――馬鹿馬鹿しい、いつまでマスクを被ってるんだ。
 それに手をかけ、引きはがそうとした、ちょうどその時。
 どん、どん。
 玄関先に、戸をたたく音と、人の気配があった。
 居留守を使いたい気分だったが、一応フラッグはラークとして応対することにする。
 きっと、例のおじさんが夕食を持ってきてくれたんだろう。
「はーい」
 しかし扉を開けると、そこにはおじさんではなく、背の高い男が立っていた。
 ――確か、こいつは…。
 思い出した、ラークと仲のいい学者で、名はランジェとかいった。
「よっ」
 人なつっこそうな顔をして、ランジェは片手を上げて挨拶をする。
 そんな気分ではなかったが仕方ない。フラッグはどうせ最後だと思うことで、ラークとして彼のテンションに付き合うことにした。
「久しぶりだなあ、時間はあるかい?良かったら上がっていってくれよ」
「ああ、そのつもりで来たんだ。実家についでがあってさ」
「実家の方がついでなのかい。相変わらず親不孝だね」
 苦笑するフリをしながら、フラッグはランジェを部屋の中に促す。
「邪魔するぜ。おー、本棚が増えてる」
 ぺしぺし、と、真新しい本棚を叩きながら、
「相変わらず勉強家だなー。俺なんか学校出てからは机が埃をかぶってるぜ」
 と言って笑った。
「まあ、僕は趣味みたいなものだからね」
 つられて笑い返すが、気を付けなければいけない。ランジェは確か非常に秀逸な頭脳の持ち主で、学生時代の成績もラークより遙かに高い。
「はは、趣味かよ。つまんねー奴」
 本人に悪気が無いことをラークは解っているはずなので、フラッグは変わらない口調で続けた。
「余計なお世話だ。何か飲むか?」
「ああ、お酒持ってきたよ。冷えてないから氷ちょうだい」
「――ああ、分かった」
 危うく間を置きそうになった。
 変装中、アルコールは非常に危険だ。しかも、フラッグはそれほど酒に強い方でもない。
 ――何故だ、僕はもう任務を終えたつもりでいるのに…。
 テストは、終わっているのに。
 ランジェは酒に強かっただろうか、…駄目だ、緊張して思い出せない。
 キッチンに向かいながら、フラッグの鼓動は高まる。
 ――何故だ。何故、今になってこんな事になるんだ。
 もう、僕は逃げだしたいのに。
 もう、放っておいて欲しいのに。
「お待たせ」
 キッチンからグラスと氷を持って戻ると、ランジェがベッドの脇に置いた手荷物を見ながら言った。
「なあ、これは夜逃げでもするのか?」
 ランジェに事情が分かるはずもない。地の利はこちらにあるので、適当な嘘でごまかせるだろう、と思う。
「まさか。実は三日前さ、名前も知らない変な人が来たんだよ。一晩だけ泊めてくれって。泊めてあげたら、そいつが忘れていったんだ」
「女か?」
 まさか、と苦笑しながら、
「多分、この借家にベッドが二つ備え付けてある事を知ったんじゃないかな。やけに腰の低い奴で、恩を返せないことをひどく謝ってた」
 と、真実味の増すことも言っておく。
「――でもこの中に入ってた財布、けっこう重かったぜ?」
 …鋭い。
「――おいおい、勝手に漁るなよ。それで困ってたのさ、そのお金を届ける所だって言ってたから。すぐに気付いて戻ってくると思ってたんだけど…」
「金を?どこに届けるって?」
 ――しつこいんだよ、くそ!
「親の所、としか言ってなかった。病気だから看病してやりたいんだってさ」
「ふーん。あ、ひょっとしたら城塞都市ウァーナの事かも。最近あそこ、流行病が一部で広がったらしいぜ。そいつの額に、十字を二つずらしたような印がなかったか?」
 ――ウァーナ?知らん。
「…あー、ああ。あったあった。多分そうだよ」
「あれっ、でもそれだとおかしいな。ウァーナは通貨が違うから、財布に入ってた硬貨は使えないはずなんだよなあ…」
 ――うわああ、泥沼だ。
 じとっ。
 ランジェは眉をひそめ、前屈みになってフラッグを凝視する。
「お前さ、何か隠してない?」
「い、いや…」
 ――まずい!
 なんで?
 なんで今さら?
 いいよ、どうせ僕は嘘が下手だ。もう分かったから、勘弁してくれよ。
 荷物をひっ掴んで玄関から逃げ出そうか、そんな考えすら浮かんだその時。
「はは、悪い」
 突然、ランジェがその口元を緩め、笑った。
 というか、その声はランジェのものではなく――
 べりっ。
 ランジェはその仮面を脱ぎ捨てると、フラッグの知っている人になった。
「あ、あなたはレギオン!?」
 そうだ。
 長身で、髭を生やしたら似合いそうな、寡黙な男。
 クラリーネの後ろでじっと直立していた、彼だった。
「な、なんで…!?」
 レギオンは微笑をたたえながら、ベッドに座り直した。
 彼の笑うところを見るのは初めてだったが、そんなことはどうでもいい。
「レギオンさん?」
「レギオンでいい。――まあ座れよ」
「…はい…」
 まだ手に持っていた氷が馬鹿らしく思えて、お盆ごと床に置いた。
「悪いな、向かいにおじさんが住んでるだろ。白髪の」
「…はい…」
「あれな、実は俺だったんだ。まあテストだからな、監視せざるを得なかったのは許してくれ」
「ええ!?」
 ――あれがレギオン!?
「でも、背とかが違うじゃないですか!」
「いや、だから前屈みで歩いてたんだよ。見事に錯覚してくれたみたいだな」
「な…」
 そんな。
 じゃあ報告書にあった、ラークの部屋にたまに夕食を分けに来るじいさんの、あの一行は真っ赤な嘘だったのか。
 レギオンに自分を監視させるため、後から付け足された文章で。
 ラークという人間に、そんな習慣は無かったんだ。
「それにしてもフラッグ、何故そんな事をバラしてまでここに来たかは分かるな」
 ――あ。
「…はい…」
「俺もこれを持ってるからな、当主から連絡を受けて」
 言いながら、レギオンはポケットから例の手帳を見せた。
 ――監視がついてたのか…なるほど。
 さすがだ。逃げ出せないようになってるわけだ。
「別に怒っちゃいないから安心しろ。どうせ今日の一件で自信を無くしたんだろ?」
「…はい…」
 レギオンの佇まいが、喋り方があまりに頼もしくて、自分が情けなくなる。
 優しい言葉でもかけられたら、泣いてしまいそうだった。
「最初はそんなもんだ。当主から聞いたが、今回のテストは異例のハプニングが起きちまって、本当にすまん。いきなりこの展開じゃお前の心労も分かる」
 苦笑を交えながら、レギオンは淡々と話す。
 フラッグはこういう人物は、いい意味で苦手だった。
 普段は寡黙だけど、自分の考えをはっきり持っているような、静かで、それでいて存在感の大きな人間。
 一言一言が重いから、こういう人物にだけは、逆らえない。
「これで最後までこなせば逸材だと思ってたが、さすがに俺の出番だと思ってな」
 ――情けない。
 フラッグは首を垂れた。
「まだ、続けなきゃダメでしょうか」
「他の者に代わらせることもできる。この依頼は初日から難度が急上昇しただろ?その時に俺が、そう当主に提案したこともあったんだ」
「…当主はその時、何て?」
「よく分からんが、いいから続けさせろ、の一点張りだった。お前、何かしたのか?」
 ――あの女、どこまで。
「ともかく、今回はしょうがない。他の者に代わらせて、お前のテストはまた後日ということでどうだ?」
「………」
 他の者。
 簡単に言うが、じゃあそいつは、僕が一週間かけて身に付けたラークの生活と、僕が今までした事を、すべて今夜のうちに把握して、難なくこなしてしまうんだろうか。
 マスク。
 ――僕は、何も分かっていなかった。
「…任務、続けてもいいでしょうか」
「続けるのか?」
「はい…済みません、言うことすぐに変えちゃって。こういうの、一番駄目ですよね」
「そう小さくなるな。マスクは仲間意識が強いから、大丈夫だ」
「済みません…」
 レギオンに言われて、何か現実が変わったわけではない。
 ただ、彼のおかげで、自分の中で何かが落ち着いた。
 自分はマスクの中でテストを受けていて、それが大変なものになってしまったけれど、レギオンはそれを応援してくれていて。行き場の無い自分に、足場があることを認識させてくれた。
 ラークとして生活していて、すべての人を欺きながら、どんな言葉を交わしながらも、その心の中のフラッグは孤独だった。
 心労も祟って、弱くなっていただけなのかもしれない。
 どちらにしろ、いきがったところで自分はまだ未熟だったのだ。
「…一つ」
 顔を上げる。
「聞きたいことがあるんです。レギオンさんは、この街に詳しいですか?」
 レギオンは呼び捨てでいいのに、という顔をしながら答える。
「ああ。さっき言ったウァーナの伝染病の話も本当だぞ。時事には敏感でないとな」
「なぜクレアは、レアカムの街を離れてトーヴェに来ているんですか?身体が弱いとかいう理由じゃない、クレアはトーヴェの街全体から嫌われてるみたいだ」
 昼間の、三人組の言葉が気にかかった。
「ああ…なるほど。それな」
 言って、レギオンは一呼吸置く。
 頼もしい双眸は、どうやって説明しようか思案しているようだった。
「レアカムの街を知っているか?ここから川ひとつ向こうの、貴族の街だ。トーヴェの街はな、昔、レアカムに攻め込まれたことがあるんだ。そのころのトーヴェはまだ発展途上もいいところで、抵抗する術もなかった。
 レアカムがなぜ攻めたかというと、これも馬鹿な話、ちょうどその頃、レアカムに来る行商を襲う山賊が活発だったんだな。レアカムは財畜が人間の価値を決める、嫌な街だ。それだけに、高価な積み荷を山賊に持って行かれるのは我慢がならなかった。粗暴なトーヴェとレアカムではそりが合わなくてな、誰かが一人、山賊とトーヴェの街がつるんでいるという偽情報を流した。
 一触即発ってやつだ。特にトーヴェの何かを奪うわけでもなし、レアカムはとにかくトーヴェを襲った。喧嘩上等のトーヴェもトーヴェだが、レアカムの王はもっと質が悪い。偽情報を流す手引きをしたのは、その王様本人なんだからな。無論、怒り狂った市民の暴挙を制止するはずもない。
 やがてそれが偽情報だったという事実がレアカムに報され、レアカムの貴族は位の高い順、つまり金銭的な蓄えのある順番だな、上の方から、その戦争の負債を払うべきだとされたんだ。国と国の戦争ではなく、個人同士の争いだからな。その責任を国がとる必要は無かった。つまり国王はそうすることで、有力貴族の財畜を削って、それが自分に追いつかないようにしたかったわけだ。偽情報を流した時点から、そのつもりだったんだよ。トーヴェとレアカムの険悪な関係を利用したってわけだ。
 以来、トーヴェにやむなく負債を払いに家を構えさせられたレアカム貴族が後を絶たないが、トーヴェ市民が貴族を逆恨みするのも無理はない。クレアのレーゼ家も、遠回しに言えばその被害者ってわけさ。
 ――まだ何か聞きたいことはあるか?」
「………」
 また、複雑な話だった。
 どちらも悪くはない。強いて言えば、その国王が元凶か。
 それにしても――。
「なぜ、レギオンさんがそこまで知ってるんですか?偽情報の手引きをしたのが、王様だって」
 レギオンは口元を緩め、言う。
「その頃、雇われたのさ。王様お抱えの隠密部隊に」
「えっ」
「その中にも、情報操作に良心を咎める奴がいてな。その間中、その仕事を俺に押しつけてきやがった」
「な、それじゃあ――」
 ――レギオンさん、あんたにもその戦争を回避する手段はあったんじゃないか。
「…で、その通りにしたんですか」
「ああ。金はたんまりもらったしな、卑劣な顔した奴だったが、あいつも客だ。――軽蔑したか?」
「…よく分かりません」
「深く考えることはない。善も悪もない、マスクは欺くのが仕事だからな」
 欺くのが仕事。
 それは、誰の事だろう。
「レギオンさんが初めからその兵士だったとしたら、その仕事を渡された時どうしてました?」
「俺が?」
 レギオンが初めて、意外そうな顔をする。
「俺だったら…やっぱり、偽情報を揉み消すような情報を流して回るかな。そもそも、そんな王には最初から仕えないだろうよ」
 じゃあ、つまりその時レギオンは、他人を欺くのと同時に、
「自分にも、嘘がつけなきゃ駄目なんでしょうか」
 ――じゃあ、自分は何なんだろう。
 他人の皮を被り、他人の生活に溶け込み、それを脱ぎ捨てた時。自分は何者でもなく、着る服を失った着せ替え人形のような、無意味な存在になってしまうんだろうか。
「………」
 レギオンは黙る。
 クレアを騙すことに感じる感情は、もはや隠しきれないところまで来ていた。それが証明されたのが、今日の昼の出来事だ。
 どうすればいいのか分からないし、だからといってレギオンにどんな答えを求めたのかも分からない。ただ、釈然としない、あやふやな、演技と自分を分ける一線をはっきりと定めたかった。
 そして、レギオンは言う。
「マスクに限らない。そんなこと、誰にも分からないだろう」
「え」
「本当の、自分なんて」
「………」
 ――確かに、レギオンの言葉は核心を突いている。
 要は、分からない、ということを分からせてくれただけ。
 つまらないことを聞いた。
「すみません、変なこと聞いて。きっと疲れてるんですよ、僕」
 それを聞いて、レギオンは目を細めた。
「邪魔したな。それじゃ、明日からもがんばれ。当主にも一言言っておけよ」
 立ち上がると、レギオンはランジェの仮面を被り、玄関に向かった。
「ありがとう。…レギオン」
 言うと、レギオンは満足そうに微笑み、そっとドアを閉めた。
 クラリーネに謝罪と、明日から続ける、という文をしたためた所、
 『読みにくいっつーの』
 という返事が書かれたのを見て、フラッグは安心した。



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