虹の契約



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 長かった演奏は終わる。
 ぱちぱちぱち。
 豪雨に掻き消されそうだったが、小さな拍手。シャルテの歌声に対して、シンも手を叩いた。
 そして二人とも、黙ったまま目を合わせる。
 丘の向こうの集落は、そのほとんどが水没していた。この丘が水に沈むのも、もうしばらくのこと。
「もう、いいだろう」
 シンは呟くように言う。
「シャルテ、君は――」
「そうだね」
 ふわりと、シャルテの身体が浮き上がる。
 オリーブの木の根元から見上げているだけだった彼女は、シンの腰掛けている枝の高さまで浮遊すると、その空中で停止した。
 再び、目が合う。
オリーブの木から見下ろすより、ずっと近くにシャルテの顔があった。滞空している長い髪は不自然に、まるで水中のように舞い広がっていた。
「ノアに箱船を造るように言ったのは私で、洪水を起こしているのも私。あなたを創ったのも、この世界を創ったのも――」
 シンの表情は、落ち着いたものだった。
「やっぱりね」
 そしてシンの視界にいる少女は、シャルテではなくなった。それは、この矛盾だらけの人間を創りし、矛盾だらけの神。
「自分で創っておいて、自分で壊すというのか。俺たちは、神の退屈をしのぐためだけの、玩具だったと」
 シャルテは覇気がなく、それでも反論を返す。
「壊すんじゃない。失敗した部分を切り取るだけ」
 これが最後の瞬間でなければ、シンは見苦しく怒鳴り散らしたかもしれなかった。
「俺たちは――いや、あの箱船の外側は、すべて失敗作だと?」
「ごめんね。本当にごめん」
 何について謝っているのか判らなかったが、それを受け流してシンはさらに問う。
「神は完全でないと、認めるんだな?」
「当たり前だよ。完全な物が、この世にあると思う? 私に変な期待をしないで。真理も善悪も、誰かが超越できるような命題じゃない」
「この地が悪に満ちているから滅ぼすというのは――」
「もちろん――たてまえ」
「そんな神を崇拝する人間を、箱船に乗せるんだな」
 シャルテの表情が、一際暗くなる。
「テストだよ……。私を崇拝するかどうかは、私個人には問題じゃない。ただ、神の存在を認めているかどうか。人の文明はネフィリム達のせいで、ここで足踏みをしてしまった。新たに文明を進めるためには……私の言葉を聞いてくれる人間以外を、洗い流してしまうのが手っ取り早い」
「――まるでモノ扱いだな」
「…………」
 その言葉で、シャルテは素顔を崩す。そして、本当に、まるで小さな子供のように、嗚咽を漏らしながら、涙を流し始めた。
「……なぜ泣く」
「ごめんなさい……ごめんなさい……私はまだ未熟だけど……きっと、いつかこの世界を、宇宙の何処にも劣らないような世界にするから……だから……」
 ――こいつは不器用だけど、きっといい奴だ――
 滴り落ちる涙を見ながら、シンはそんな見当違いな事を思ってしまった。目の前の少女が、あまりにも、人間臭くて。
 ふと見れば、もうどこがシンの集落だったのか分からなくなっていた。一面の水。箱船ははるか遠くに見え、それだけが水面から頭を覗かせている。この丘も例外ではなく、オリーブの木の根元までも、水面が迫ってきていた。
「教えるよ。なぜ俺が神を嫌っていたか」
 もう見当ついてるだろうけどな、と付け加えてから、シンは自分の半生を簡潔に話した。
 シンはネフィリムの中に生まれ落ちた、彼らの種族にとっての奇形だった。手の指は5本、足の指も同じ。身長、体重、腕力も、ネフィリムの基準では明らかな落第点。シンは一族から捨てられた。
 拾ってくれたのは、人間の一家。ネフィリム達には遠く及ばなくとも、その血を受け継いだ腕力は、人間の中で大いに歓迎された。
 異変が起きるのには、そう時間はかからなかった。人を見るたびに感じる、理由のないストレス。シンはいつしか、家族の姿にすら、嫌悪を覚えるようになってしまった。無意識による悪意――それがネフィリムの一族による呪いなのだとしたら。自分の居場所はどこにあるのだろう、と思った。
 そして、破局。ある夏の暑い日、シンは我慢ができなくなり集落の仲間を一人絞め殺してしまった。まず遊び仲間だったハムとヤペテが離れていき、家族も次第に距離を置くようになっていった。セムは唯一シンを恐れず付き合ってくれたが、結局はクノンだけが、シンの理解者だった。
 シンは集落にいる時間を減らし、良い景色が見える丘を見つけ、暇さえあれば丘に来て琴を弾くようになった。そして――
 シンは、しきりに問いかけるようになった。
 ――何が、悪いのか?
 答えの矛先は、目の前の少女に向けられていた。
「さようなら」
 最後は、穏やかな声。シンは未来に向かって、別れを告げた。
「さようなら」
 返すのは涙声。
「シャルテの歌声、綺麗だったよ」
 泣き笑いを残して、少女は消えていった。
 シンは空を見上げて、目を閉じた――

   ***

 雨は四十日四十夜、降り続いた。
 大地から水が引くのには、その五倍ほどかかったが、ついに箱船はアララトという山の頂に落ち着く。
 箱船から出たノアの家族が最初に目にしたのは、透き通るような青空に、一条の虹。
 神はノアに、最後の啓示を行う。
 それは後に、虹の契約と呼ばれた。



「わたしはあなたがたと契約を立てる。
すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。
もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」

   ―創世記9章11節―


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