虹の契約



   2

「――俺の詩に興味を持ったのは、なぜ?」
 シャルテは、相変わらずオリーブの木の根元で座ったままだ。
 空はますます暗くなってきて、時折光るようになっていた。遠くからは、稲光の音も聞こえる。
 暗雲が何かを溜め込んでいるのは、経験が無くとも容易に感じ取れた。
「……えっと。不思議だったから、かな」
 シンは木の上から話している。お互い、見つめているのは遠くの空だった。
「不思議? 詩が?」
「詩を歌おうとする気持ちが。なんで、あなたは感情を詩に込めようとするのか」
 シンは黙ったまま、少し俯いた。
 いつもシャルテは、妙なことに関心を持つ。
「シャルテ。やっぱり君は――」
「言わないで。きっと私は否定するし。証拠もないから」
 開いたままになってしまった口を、閉じようとする。
「……もうすぐ、その証拠が見られるじゃないか……」
 そんな言葉が漏れた。
「うん。でも、まだ少しだけ、その時じゃない」
 今度こそ、シンは黙った。
 遠くを見据える。
 家々の集まる、シンの集落の片隅。
 この高原に不釣り合いなほど、巨大な建造物があった。
 ノアの箱船と、人は呼んだ――。

   ***

 それは、約1年ほど前のこと。ちょうどシャルテと知り合った時期に重なる。
 あの頃はまだ親友だったセムが、持ちかけた話だった。
「――雨?」
「ああ。父さんが、神から啓示を受けたんだ」
 セムは長男で、次男にハム、三男にヤペテという兄弟がいた。
 家と歳が近かったせいか、シンはその三兄弟と子供の頃からよく遊んだ。
 集落の外れにある、ちょっとした雑木林。昔遊んでいた習慣か、特に親しいセムと会うのは、いつもその場所だった。
「水が、空から降ってくるらしい。こう、ざーーー、ってな」
 シンは鼻で笑った。
「そいつはいい。それなら、その『雨』とやらが降ってる間は井戸まで行かなくて済む」
「違うんだ」
 セムの言う話の内容は、こうだった。
 ――今、地上には悪が満ちていると。
 それはネフィリムの存在だけでなく、人々の神への信仰心も薄れていることも指すと。確かにシンを始めとする多くの民は生活に追われ、神へ捧げ物をすることも減ってはいる。ノアの家族――つまりノアとその妻、そして三人の息子、セム、ハム、ヤペテと、そのそれぞれの妻。その8人ぐらいが、神に献身していると言えた。
 だから神は、この地上を水で覆い尽くし、一部を除くすべての生命を殺すと。
 そして、信仰のある者は『船』を建造し、信仰のある者と、地を這う生き物と空を飛ぶ生き物のすべてを、つがいで船に乗せるようにと。
 船の外に残された生命は――例外なく助からない、と。
「そんなルールじゃ、分が悪すぎるんだよ」
 セムが真剣に話しているのは、シンにも分かっていた。
 セムの父ノアは、確かに皆に認められた大司祭だ。神からの啓示を受けて、その言葉に偽りがあるはずもない。
「そんな大きなリスクを背負って、建てたこともない物を建てるくらいなら、俺はむしろ神の気が変わる方に賭けるね」
 他の奴にも話せばいい――誰も手伝うはずがない。ネフィリムに脅かされながらの自給自足の生活が大変なことは、誰しも肌で感じていることだ。
 けれども、セムは引き下がらなかった。
「シン」
 語調も強く。
 セムは、シンの肩を掴んだ。
「俺は、お前に死んでほしくないんだ。他の奴には笑われたっていい。でも、お前だけは見捨てたくない」
 直視したセムの目を見て、シンは初めて気づいた。
 ――ああ……。違う人間だ。
 成長して初めて、白鳥に紛れたアヒルが露見するように。
 俺はこいつと、違ったんだ――。
「放せよ」
 言いながら、セムの手を振り払う。
「……っ」
 セムの傷ついた顔が、心に残った。

次ページへ  / 2 / /

TOPに戻る