虹の契約
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真昼の空は、いよいよ暗く。
立ちこめる暗雲は、大地のすみずみを影で覆っていく。
シンは琴から手を離し、詩を歌うのを止めた。
ぱちぱちぱち。
そしていつも通りに――小さな観客は、手を叩くのだった。
少女は、屈託なく。まるで今を、日常の延長線のように。
シンは少し微笑んで、いつものように言う。
「ご静聴、ありがとうございました」
そして、言葉の最後に少女の名前――シャルテ、と付ける。
シャルテは本当にいつも通り、うっすらと笑みを浮かべた。
集落の外れ。
誰も来ないような小高い丘の上に、象徴的なオリーブの木が植わっている。群生して生えるこの種にしては珍しく、仲間はずれにされたのであろうこの木は、きっと性根のせいだろう、枝がぐにゃぐにゃと曲がりくねっており、登るのにちょうど良い枝をたくわえていた。
その枝の上がシンの特等席で。いつからか現れるようになった少女シャルテは、その根元に腰掛けて、シンの奏でる琴と詩を聴くのだった。
登るのに苦労させられる分、この丘からの眺めは絶景だ。シンが住まう集落全体をほぼ一望でき、視界をさえぎる物も無く見通しが良い。
シンはシャルテを斜に見下ろしながら、初めて彼女に会った時のことを思い返していた――。
1
1年以上も前のことだ。
シャルテと出会った日。1日の仕事を終えたシンは、新しい詩を歌おうとその日も丘に出かけたのだった。
連れ立つのは、銀白の獣。シンが子供のころから飼っている、高原に住む狼だ。クノンと名付けられた狼は、長い間シンの良き相棒だった。
シンは運良く計9人の大家族の一員で、比較的豊かな生活を送れる立場にあった。狩りをするにも調理をするにも、大家族はとかく有利だ。シンが詩を歌うのが好きで、その趣味を謳歌するに足る時間を得られるのも、大家族による余裕だといえる。
1人と1匹は程なくしていつもの丘に着いたが、しかし、その日は特等席の様子がいつもと違った。
目に飛び込んできたのは、オリーブの木より背が高い、巨人の背中。体型こそ人型だが、そのサイズは身体のすべてが常人の倍ぐらいあった。
「誰かーっ!」
そして、幼い少女の悲痛な叫び声。
シンは思い出した――出かけに、よく母に言われる言葉を。
『ネフィリムに気をつけてね』
隣では、銀色の毛を逆立ててクノンが唸り声を上げている。
迷っている暇はない。
近くの石を拾うと、シンは大声を出して言った。
「おい! お前の相手はこっちだ!」
ネフィリムが振り向く――。
とても、仲良くなれそうな顔ではなかった。
ネフィリムという種族は通称、悪魔の子、とも呼ばれている。
天より堕ちた堕天使が地上の女性に欲情し、成した子がネフィリムになるのだという。その四肢のサイズは通常の人間のスケールを逸しており、彼らの中では手と足の指は6本、というのが普通らしい。
「ヴヴ……!」
振り向いたネフィリムは、その視界にシンとクノンをとらえると、すぐに標的を切り替え猛然と突進してきた。
非常に彼らの特性として強いのが、無意識による悪意だ。彼らはまるで亡霊のように、生活を営む人間すべてに対して生まれつきの敵対心を持っている。だから人間は常に、ネフィリムの暴力が届かない場所を選んで、野営を張っていた。
「クノン!」
一瞬だけ、クノンと目を合わせる。鋭い獣の瞳があった。
左右に分かれ、シンとクノンは迫るネフィリムの突進を、その拳ごとかわす。
クノンは一際大きく跳躍すると、ネフィリムの首もとめがけて飛びかかった。クノンから獰猛な唸り声が漏れ、ネフィリムから人のものとは全く異質な叫びが上がる。
「去れ! ここはお前の住む土地じゃない!」
シンは腰に下げた袋からスリングを取り出すと、石を装填する。
「オオオオオオ……」
ひどく低い声で咆吼を上げ、ネフィリムは身を震わせた。クノンは振り払われたが、上手く着地する。
クノンがネフィリムから離れたのを見て、シンは投石による攻撃をした。胸元に命中――。
スリング自体は石を入れて振り回すことのできるただのなめし皮だが、遠心力を利用しての投石には十分な殺傷力がある。それは相手が巨人になっても、大きなダメージを与えられることに変わりはない。ましてシンは、腕力に自信があった。
距離をとりながら、シンは2発目を装填する。
しかし、対峙したネフィリムは戦意をなくしたのか、シンに背をむけて走り出した。
「逃げた……?」
しばしその背中を目で追ったが、本当に逃げただけのようだった。逃げた方向は山岳地帯――群れに戻るのだろう。
クノンも警戒を解き、シンにすり寄ってくる。
シンは安堵のため息をつき、さっきの少女の方を向いた。
「――大丈夫?」
オリーブの木の後ろに隠れていた少女は、ゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう……今のは?」
「ネフィリムを知らないのか?」
少女はうなずく。
「見つかったら襲ってくる。すぐに逃げた方がいい。――俺と、同じ集落の人間だね?」
言って、シンは丘から自分の集落を見やる。
「うん」
この場所を知っているのは自分だけだと思っていたので、シンは少し驚いた。
「なるべく早く帰った方がいい」
「あなたは、どうしてここに?」
「……えっと。俺は――」
そして、自己紹介。
少女はシャルテと名乗り、シンの詩を聴きたがった。
あまり人に聴かせることはなかったのでシンは戸惑ったが、好きにさせることにした。
それから、丘に上がる度にシャルテに会うようになって。
――それが、始まりだった。
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