虹の契約



   3

 また一際、風が冷たくなったような気がした。
 雷の音の、なんと近いことか。
 集落を見下ろせば、地を這う人間がぱらぱらと幕屋から外に出て、皆同じように空を見上げていた。
 滑稽だった。
「もうすぐだな」
 言うと、シャルテは木の下からシンを見上げた。
「ね、琴を弾いて。今度は私も歌ってみる」
「……え」
「一番よく歌ってた、『空は青く、風は丘を――』で始まる詩。あれなら私、きっと歌えるから」
 シャルテと、詩を歌う……。考えたこともなかった。
 何度も会っていたのに、なぜ思いつかなかったのか。
 しかも、今になって。
 シンは――それを楽しそうだと、思ってしまった。
 一度はしまった琴をもう一度取り出すと、シンは演奏を始めた。
 この大地で、最後のアンサンブル。
 琴の音に乗せて、シャルテが澄んだ声で歌い出した。
「…………!」
 天使の歌声など、聴いたこともないのに。
 そう形容したくなってしまうのは、何故だろう。
 いや、天使というより、彼女は――
 ぽつり。
 そして、一際大きな稲光。
 ぽつぽつぽつぽつ…………
 雨が、降り出した。
 樽の中の水を、頭からかけ続けられるような感覚。
 雪崩のように大地を覆っていく雨は、2人の体を打ちつける。
 どちらとも、演奏を止めなかった。
 『空は青く、風は丘を抜けて――』
 まるで不釣り合いな歌詞。
 シンは、幸せだった。

   ***

 ――つい、昨日のことだった。
 ノアの箱船の作業は遅々としていて、しかしそれでも、ノアの家族による懸命な努力によって、ついにそれは完成を迎えていた。
 箱船の長さは三〇〇キュビト(約百三三メートル)、その幅は五〇キュビト(約一三五メートル)その高さは三〇(約一三メートル)キュビト。
 神が与えた、無謀な企画書。セムとよく遊んでいた集落の外れから、雑木林はその姿を消し、替わりに雑木林は木片として組み込まれた箱船の一部に生まれ変わり、箱船はその同じ場所に鎮座していた。切り開かれた土地に横たわる箱船は、他の誰の目から見ても異色だった。
 そして箱船の建造と平行して行われていた、つがいの動物収集には、どうやら神の力が働いたようだった。空を飛ぶ多くの鳥が、明らかに不自然な動きで箱船の2階についた窓へ入っていくのを何度も目にしたからだ。ズルをしているようで、シンはそれが鼻についた。
 不埒な人間が建造の邪魔をすることも多々あったが、ノアの家族は凛として作業を止めたりはせず。シンは複雑な気持ちで、その完成を見守っていた。
「シン……考え直す気はないか」
 箱船を見上げるシンに話しかけてきたのは、久しぶりに対面するセムだった。セムとは以前の諍いで気まずくなってから、お互い話をしていない。
「何を、考え直すのさ。俺の答えは最初から出てる」
「シン、死んだら何もかも終わりだ。今一度だけ、曲げる気はないか」
「俺はお前と違って、死にたくないから生きてるわけじゃない。だから、死を前にしても譲れない物がある」
 友愛の感じられない問答。二人は他人だった。
「――死んでも守りたい物って……何だよ」
 シンは、ふっと笑った。
「いよいよ明日なんだな。神の啓示が、正しいのなら」
「神が間違いなど起こすはずもない。明日だ」
 シンは、クノンを呼ぶ口笛を吹いた。
「神が間違いを起こさない? 間違いを起こしたから――『雨』とやらで、やり直すつもりなんじゃないのか」
「違う。それは――」
 息も荒く、クノンが真っ直ぐシンの元へ駆けてくる。クノンは主人の前まで来ると、シンの膝小僧に喉をすり寄せた。
「……よく懐いてるんだな」
 ついセムがそうこぼしてしまうほど、シンはこの獣を手なずけていた。
 そしてシンは、セムに向き直って言う。
「箱船には、どうせ狼も乗せるんだろ? こいつを、クノンを――頼む」
 獣は不安そうな色を見せ、それでも主人の指し示す通り、セムの足下まで歩み寄っていった。
「……いいのか」
「ああ。俺の代わりとでも思ってくれ」
「……こいつは、きっとお前と一緒にいることを望んでるぞ」
「ああ。でも、俺が言えば行く。こいつは獣だからな」
 含んだような言い方に、セムが反応する。その先にある言葉を、目で求めた。
 それに呼応したかのように、シンは告げる――
「――でも俺は人間だから、箱船には乗らない」
 言って、シンは踵を返す。
 また、あの丘へ行こうと思った。
「僕は、神に飼い慣らされた犬じゃない……!」
 シンの背中に、そんな言葉が投げかけられた。
 ――結局。
 それがシンとセムが交わした、最後の言葉だった。


「こんにちは」
 丘へ上がると、オリーブの木の根元で、それが当然のように、彼女は待っていた。
「シャルテ……」
 不思議な子だった。
 いつもシンより先に来ているくせに、帰るのもシンの方が早い。シャルテが同じ集落の人間ではないことは、おぼろげに分かり始めていた。
 どこから来て、どこへ帰っているのか。
 シャルテに何を聞いても、いつも明快な答えは返ってこなかった。
「――シンは、神様の意志が直接反映される世界をどう思う?」
 けど、今日のシャルテはどこか、珍しく饒舌だった。シンが始めに一曲弾き終わった後、その空白の時間で、彼女は呟くように問うた。
「――非常に悪い、と思う」
 シンは冷たく言い捨てる。
「なぜ」
 声は少し震えていた。
「……えっと、ね」
 シンは琴をしまう。
「神への信仰心は、人の弱さの表れだと思うから。かな」
「それは……神様を崇拝することが、間違いだと?」
「――平たく言えば、間違いだね」
「なぜ」
「たとえそれが実現したとしても、人は神の存在を認めるべきじゃない。心の弱さは、神への依存心を焚きつける。最後に残るのは人の形をした抜け殻さ」
 シャルテは、枝の上のシンを見上げる。
「もっともらしいこと言わないでよ。嘘つき」
辺りが凍りつきそうなほど、鋭い口調。
 シンは目を合わせようとしない。
「シンほど力持ちの人が、家族の中で重宝がられないはずがない。何度もここへ来て詩を歌う時間があるのは、家族から疎外されているか、もしくは――」
「黙れ!」
 珍しい、シンの感情的な怒声。シャルテは目を細めた。
 そして、沈黙。
 程なくして、シャルテは変わらず平坦な口調で呟く。
「……ごめんね。でも……どうせ最後だから。聞いたことに、答えてほしかったな」
 そして、シャルテは言いかけた言葉の先を言い放った。
「シンは、ネフィリム?」


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