いのちの魔法



   4

「え? 届いてない?」
「ええ。少なくとも本署に届け出は出ていませんね。他の署にも念のため連絡を入れてみますが、5日前から捜索願が出されたままだったら、こちらにも伝わってきているはずですし…」
 ちょっと待ってください、と言って、恰幅のいいお巡りさんは受話器を手に取る。
 交番に行けば万事解決すると思い込んでいたので、俺はどう反応していいのか分からなかった。
 すずが、きゅっと俺の手を握る。
 すずの中にこみ上げた不安が伝わってくる。
「…はい、そうですか、はい…はい、分かりました、失礼します――と。やっぱり届いてませんね。それも記憶をなくしているとなると、これは時間がかかりますよ」
 流暢な舌で、お巡りさんはてきぱきと説明する。
「指紋とかで身元は分からないんですか?」
「前科がなければ役所を挟むことになるんで、また時間がかかるんですが――どうします? ここで預かりましょうか」
「…すず、どうしたい?」
「………」
 すずの困惑した顔を見て、俺は後悔した。
 こんな子供が、自分の意志を尊重されたところで持て余すだけだ。
 すずにとってどうしたらいいか、俺が考えてやるべきだったな。
「いえ…俺の家にも慣れてるみたいですし、連れて帰ります。念のため住所と携帯の番号控えてもらえますか」
「そうですか、ではこちらに」


「――そうか。そりゃ大変だな」
「まあな」
 アパートに戻ると、伸一が帰り支度を整えていた。
「警察じゃ預かってもらえなかったか?」
「いや――まあ、なんというか」
 伸一が口だけで笑う。
「お前らしいよ」
「ふん」
「じゃ、俺行くわ。まあがんばれ」
「ああ」
「…そうそう、それから」
 玄関で靴を履きながら、伸一は顔だけこちらに向けて言う。
「美菜ちゃんな、大学は落ちた」
「――え?」
 伸一がまるでどうでもいいことのように言うから、その事実を把握するのにやや時間がかかった。
「調理師の免許取りながら、バイトしてる」
「………そう、か…」
「でさ。美菜ちゃんの言いつけ通り、お前と話したことはそっくりそのまま報告しとくけど」
 伸一は靴を履き終わって、体ごとこちらに向ける。
「口には出さないけど美菜ちゃん、きっと寂しがってると思うんだな。幼なじみは下宿するし、学生でもなければ、知り合いもできにくい」
 ひと呼吸おいて、そして、やや緊張した面持ちで。
「それで、俺が側にいても――いいと思うか?」
 …なんだ。
 こいつ、そうだったのか。
 伸一にしては珍しく、抜けてる。俺のことを心配してる美菜が、住所も知ってるくせになんで直接来ないで伸一を使わしてきたのか、考えてみなかったのか。
「ああ、いいよ。むしろ頼む」
「そっか。実は――お前の言ってた『ただの幼なじみ』っての、あんまり信用してなかったんだよな」
「美菜も同じだよ。ただの幼なじみとしか、俺を見てない」
「サンキュ、じゃあな」
「あっ…、伸一――」
「ん?」
「………」
「………」
「…美菜の前では、煙草はやめろよ」
「了解」
 笑顔だけ残して、伸一はドアを閉めた。
 一瞬――『ありがとう』と言ったら、今の生活が、いや――俺の生き方そのものが、すべて塗り変わってしまうような気がして。
 それに代わる、気の利いた台詞も出てこなかった。


「…ゆたか」
「うん?」
 その日の深夜。俺は相変わらず机に向かって、充実感のない時間を過ごしていた。
「公園に、行きたいな…」
 すずが自分から何かを頼むなんて、珍しかった。ていうか、たぶん初めてだ。
「いいよ。息抜きするかな」
「うん」
 隣を歩くすずは、黙ったままだ。
 これからどうしたらいいのか、俺にもすずにも分からない。
 でもできる限り、俺にできることはしてやりたいと思っていた。
「………ふう」
 晴れた夜空を見上げ、ため息をつく。
 なんか、辛かった。
 漫画を書き始めてからいろいろあった。人と違うことをしてる、そんな自分には他人に誇れるものがあるんだって、一種それが俺自身に対する誇りだった。それを止めて、こうして現実に流されて、それなのにこうして足踏みしている自分は…何のために朝起きて、予備校行って、バイトして、……生きて……。
 すべてが意味のないものに思えてきてしまって、でも続けるしかなくて…
 …なんか、辛かった。
 ほどなくして、公園に着く。
 今夜は風が強かった。
 公園の隅では背の高い雑草が、みな横凪に波打っている。
 この前と同じ、街灯に照らされたベンチに腰掛ける。街灯は切れかかっていて、さっきから点滅を繰り返している。
 隣では、両足をぶらぶらさせながらすずがその顔に陰を落としていた。
「心配するなって。きっと見つかるよ」
 すう、と、すずが顔だけをこちらに向ける。
「そんなこと、どうでもいいの」
「え」
 どういう意味か分からなかった。
 たしかすずは迷子で、家が分からないから、俺が預かっていたはずだ。
「思い出したから」
「思い出した…って、まさか記憶を…」
「違うよ。忘れてたのは豊の方…だって、思い出したの」
 決意めいた、抑揚の無い声。
「…え?」
 ざざざ。
 強めの風が通り、木々がざわめいていく。
「豊。なんで、漫画を描かないの?」
 また…それを訊くのか、すずは。
「――すず。そんなことより、家を思い出したんだったら――」
「違うよ。『そんなこと』なんて、言わないで」
 なんで。
「………」
 なんで、そんな悲しそうな顔をするんだ。
「このままじゃ、お互いだめになっちゃう…このままじゃ、だめだよ」
「すず、何のことだか俺には…」
 すずが、ゆっくり顔を上げる。
 ちょうど同じタイミングで、それを街灯が照らす。細い長髪が綺麗だった。
「例えば、もし神様がいて」
 すずは、晴れた夜空を眺めていた。
「その神様が、豊たち人間を創ったのだとして。仮に、その神様が人間みんなを滅ぼそうとしたら、豊はどうする?」
 すずの問いの意味が、理解できなかった。
 ややあって、俺は答える。
「………無駄だろうけど、逆らう」
「うん、私もだよ。私も豊に創られて、今こうして消えようとしてるけど…まだ、あきらめてないよ」
「………」
 俺に、創られた?
「だって、いきものはみんな、生きたいっていう感情を持ってるから。それは…絶対変えられない約束だから」
「………」
 すずの言葉の節々から、ある仮説を立てることができた。
 どうしようもなく、つまらない考え。
 あまりに非現実で、笑い話にもならないような。
 『命のないものに命を吹き込む魔法』…食器も、家具も、彼女の魔法はすべての『命のないもの』に命を吹き込むことができる。
 そう、たとえそれが、紙の上の存在だったとしても…。
「豊、覚えてるよね。私の魔法は、『それ』に何の愛着も持っていない人には効かなくなる」
「すず」
「その魔法は、もう切れる寸前だよ」
「すず!」
 ――ああ、まただ。
 また俺は、人から差し出された手を振り払おうとしている。
 自分一人で、なんでもできると思ってる。
 ごめん、伸一。
 ごめん、美菜。
「もう、豊の目に見えるのも限界かもしれない…」
 再び、すずの頬を無表情の涙が伝う。
 ひときわ強く、風が舞う。
 街灯の灯りが消える。
 今度は点くまでが、長い。
 暗がりの中から、すずの声。
「豊、お願いだよ…」
 俺は馬鹿だ。こんな時になっても、まだその言葉が言えない。
「決めたんだ。俺は、もう漫画を描かない」
 ――!
 一瞬、目眩がして。
「………」
 ぱちぱちぱち。
 街灯に灯りが戻る。
 目を開けると、そこには何も無かった。
 俺が創った小さな魔法使いは、もういない。
 街灯の下、落ちる陰は俺一人だけのものになっていた。
 魔法は解けたのだった。
「ちがう………ほんとうは…」
 誰もいない空間に、それをつぶやく。
 これ以上は何を言っても、独り言だった。

   *

「転校?」
「…うん。叔父さんの家に、引き取られることになったの…」
「いつ?」
「たぶん、一週間後…」
「えーっ………。一週間か…一週間だね。分かった。今描いてる漫画、一週間で仕上げるよ。絶対間に合わせるからさ」
「うん…」
 もう慣れた道を歩く。
 見慣れた扉を、叩く。
 ピンポーン。ピンポーン。
 返事がない。
 鍵がかかっていた。
 ピンポーン。
 ピンポーン。
 ピンポーン。
 ピンポーン。
 ピンポーン。
 ピンポーン。
 ピンポーン。
 胸の中が不安でいっぱいになる。
 そして気付く、郵便受けに一通の手紙。
 『豊君へ』と書かれた部分が見えたので、恐る恐る手にとって見る。
 いろいろ書いてあった。
 でも、すべて消してあった。
 消されていなかったのは、最後の一行だけ。

 『ふたりが漫画家になったら、その時また会おうね』

 それは、俺が尊敬した同志からの激励の言葉。彼女に認められたという、証。
 俺は、彼女の名を呼び続けた。
 誰もいない空間を閉じこめた、見慣れたドアを叩く。
 今日で最後なんだぞ。なんで居ないんだ。
 手にした原稿には、『いのちの魔法』という題名。
 力作だった。
 彼女に送るつもりで、彼女のために描いた。
「鈴! 鈴!」
 何度も、何度も、彼女を、――井上鈴を、俺は呼び続けた。


   * * *


「日坂先生」
「はい?」
「午後はどうするんですか?」
「その辺で食べようかと。――あ、ご一緒しますか?」
「良かった。行きましょ」


 穏やかな天気だった。
 春の日差しを一身に受けながら、こんな日が続けばいいなと思う。
 近くなので歩いて行くことにし、近道のため公園を通った。
 街中にある、緑豊かな噴水のある大きな公園。
 ここを通り抜けてすぐが、目的のレストランだった。
「こないだ、親友が結婚したんですよ」
「え。親友って、同い年の?」
 驚くのも無理ない。俺が思った以上に、二人の相性は抜群だった。
「ご懐妊だから、急ぐそうで」
「うわわ…らぶらぶだね」
 日坂先生は両手を口元にやって驚いた。
「相手の女の子が俺の幼なじみだったから、複雑な心境なんだけどね」
「へー…、その子のこと好きだったとか?」
「うーん、一時期。でもだいぶ前にふられたんですよ。ただの幼なじみとしか見れないそうで」
「ふーん…その子が自分の親友に取られちゃったんわけだ。縁だねぇ」
 取られた…という風には思ってないけどね、お互い。
 それに、縁と言えば…俺も。
「――そうだ。授賞式の時には光栄の至りでしたよ。俺、日坂べるの先生の大ファンだったから」
 授賞式の日、俺のデビューを祝う人の中に日坂先生がいたことも嬉しかったんだけど。
 その日坂先生の顔を見たとき、俺はピンときた。
「えっ、そうなの? ――じゃあひょっとして、あれからもずっと…」
「――ああ、それはもう先生が新人の頃から。家に全巻そろってますよ」
「わー…そうだったんだ…読んでてくれてたんだぁ…」
 俺はずっと、彼女の漫画を読み続けてたんだ。
「日坂先生とは縁があるみたいで。嬉しかったですよ」
「別に――今は本名で呼び合っても。ね…豊君」
「………」
 ふたりは、自然と歩く足を止める。
 それは、友との再会として言葉を交わしてもいいということ。
 今までの空白を、埋めてもいいということ。
 なら、言うことは――ずっと昔から、決まってる。
「鈴」
「俺がここまで来れたのは、最後に残してくれた鈴の手紙のおかげだ」
「脱線した時期があったんだ。スランプとかそういうのじゃなくて」
「鈴という目標があったから」
「だから」
「いまさらだけど」
「――ありがとう」
 たおやかに微笑んだ彼女の面影は、いつかのすずに似ていた。


   FIN



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