いのちの魔法



   2

「あ、おかえりなさい」
「ん…、ただいま」
 夜も遅く、俺はバイトから帰る。
 ここ数日は、すずの出迎えが少し嬉しかった。
 すずの世話は、手間と言うよりもむしろこっちが助けられることが多かった。
 よく気が利くし、いい加減一人暮らしの寂しさにもうんざりしていたところだ。素直でまっすぐな性格だったので、話し相手としても申し分なかった。どうせほんの5日のつきあいなので、プライドにはばかることなく話せるし。
 ――それに。自分でもよく分からないが、すずと話していると昔に戻ったような奇妙な懐かしさがあって、なんとなく話していて気持ちがよかった。
 最悪、あんまり手の焼ける子供だったら深夜にでも時間を見つけて交番に連れて行こうと思っていたが、それは杞憂に終わったようだ。
 そうして、すずを拾ってから3日が経った木曜日のこと。


 自主的に食器を片づけながら、すずが突然言い出した。
「ねえ、部屋とか散らかってるから掃除してもいいかな」
「掃除? 構わないけど…そんなに散らかってるかな」
「うん。すごく」
 これが当たり前だと思っていたので、さして気にもとめなかったのだが。床に積み上げられた参考書の山とか、食器が出しっぱなしのテーブルとか。育ちのいいすずには、気になるのかもしれない。
「お前、ほんといい家の生まれなんだな」
「………ん〜、やっぱり思い出せないんだよ」
 いろいろ聞いてみたが、分かったのはすずという名前だけだった。学校の名前から自分の歳まで、何を聞いても忘れたと言う。
 記憶喪失なのかも――と思ったが、それは、捜索届けを出した彼女の両親が心配することだ。交番に行けばすんなり親は見つかるだろう。こんないい子だ、親が届け出をしないわけがない。見つけた場所を考えると、以外と近くの家の子なのかもしれないな。
「さて、それじゃたまには掃除するか」
「うん」
 すっくと立ち上がり、俺は押し入れを勢いよく開けた。
 どさどさどさどさどさど!
 間一髪で、すずが埋もれてさしまうことだけは回避できた。
「あーあーあー、縁起悪いなあ」
 …浪人生だけに。
「いっぱい落ちたね」
 すずの無心の一撃。
「…忘れてたよ。押し入れには空きスペースがないんだった」
「すごい漫画の山だ…」
 すずは、雪崩れ落ちてきた漫画の山を見渡す。
 俺はそれを斜に見下ろした。これを見るのも久しぶりだ。
「実家に置いとくと捨てられそうだったからな、全部持って来ちゃったんだよ」
「こんなにいっぱい?」
「奥にはまだあるぞ。――ばかだよな、こんなものもう必要ないのに」
「わー、このへんなんかみんな同じ人の漫画だ。『日坂べるの』? 変な名前だね」
「そりゃペンネームだ。新人なんだけど、凄腕なんだぞ。その人の単行本は全部集めてたんだ」
 ――もっとも、それもここ数ヶ月は手に取ってないけど。
「? あ」
 すずが、紙くずの束を拾い上げる。
「わ〜…」
 目を輝かせながら、こちらを見て。
「豊、漫画描くんだ…」
 あまり、聞かれたくないことを聞かれた。苦笑混じりに、俺は簡潔に答える。
「昔の話だよ。もうやめたんだ」
「そうなの? こんなに上手なのに」
 その言葉に虫唾が走る――かとも思ったが、意外に俺は平常心で受け答えができた。
「もっと巧いやつは、いくらでもいるよ」
「ん〜〜〜そうなのかな」
「そうだよ」
 ――プライドも無くなった、てことか…
 いいことの、はずだった。
 余計な事を考える時間が減る。
 その分、前進できる。
「――な、ちょっと涼みに行かないか?」
 そんな気分だった。
「掃除は?」
「後でいいよ」
「うんっ」
 俺が居ない日中、すずは一人で外出しようとはしない。迷子だったのだから当然の心理だが、深夜しか外に連れていけないのは少しかわいそうだと思った。
 しかしそれは、結果的に好都合だったかもしれない。アパートの中で俺は一人暮らしの浪人生ということで通っているので、こんなお嬢様を連れ込んだことが分かれば、通報されるかもしれない。
 ……やな世の中になったもんだ。


 夜風が気持ちいい。
 すずにとっても久しぶりの外出だろう、すぐ近くの公園まで行ってみようと思った。
「――ねえ、豊のお父さんってどんな人?」
 子供特有の、唐突な話の切りだしにも慣れていた。俺は素で答える。
「いない」
 少しうーんと考えた後。
「あ。分かった、死んだんだ」
 歯に衣着せぬ言い方だった。
 童心に、口を押さえて『あ…ごめん…』とか言うのを期待したわけじゃないけど。
「死んでないよ。母さんと別れたんだ」
「へー、なんだか離婚みたいだね」
「いや、離婚なんだよ」
「離婚なんだ」
「そう」
「ふーん」
 言葉を知ってて、あまり意味を知らないんだろう。すずは臆面無く歩き続ける。
「――なんで?」
「知らないよ、気が合わなかったんだろ」
「でも、気が合ったから結婚したんでしょ?」
「………」
 それに答える言葉が、いくつか浮かぶ。ため息ひとつついて、それらを消した。
「……そうだな。俺の親も、なんで最初に結婚したのか思い返してみれば良かったのにな」
 しばしの沈黙。公園に着いた俺たちは、街灯に照らされたベンチに座る。
「豊は、なんで漫画を描くのをやめちゃったの?」
「……!」
 体が硬直していくのが自分でも分かる。
「好きだから始めたんだよね?」
 ああ、そうだよ。
 でも、今は。
 …いや、しかしそれは。
 ――離婚への弁解と、何が違う?
「…あれ、どうしたの?」
 俺の様子がおかしいことに気づいたのか、すずは心配そうに訊く。
 何気なく訊いただけのつもりなんだろう。
 すずのまっすぐな性格が、今は胸に痛かった。

   *

 ――それは、小学5年生のころだった。
 俺は絵を描くのが好きで、授業中も退屈なときはいつも絵を描いていた。俺はノートの端に描くとか、そういうみみっちいことはしない。絵を描くためのノートをいつも机の中に置いていた。
 授業用のノートに描いた絵は、場合によって消さなきゃならないことがある。それが嫌だった。
 絵を描いている時間は、他の誰がなんと言おうと、俺にとっては充実した時間だったから。それを消すのは嫌だった。
 物心もつかない子供の、それは小さなこだわりだった。
「――」
 ふと手を休め、隣の席に座った女子を見る。
 クラスで女子の名前は、半分ぐらいしか覚えていない。その子は、名前を覚えていない方の女子だった。
 明るくもない、暗くもない。
 身長も普通、体重…も、たぶん普通。
 だから、俺は別段彼女に興味を持っていたわけじゃなかった。
 ――何を真剣にノートに刻んでいるのか、それをこの目で見るまでは。
 俺が絵が上手いのは、クラスでもある程度知れ渡っていた。
 絵を描く仕事が学級である時などは満場一致で自分に白羽の矢が立つ。俺は照れながらもその仕事をこなして、クラスの期待に応える…そして、そんな自分が少し誇らしかったりもした。
 その考えを捨てたのは、この瞬間だ。
 彼女の絵には、上手いだけの俺とは次元の違う巧みさがあった。絵が持つ、独特の雰囲気というか。彼女にしか描けないであろう、彼女の感性が滲み出た絵だった。
 それがどんな意味の震えなのか分からない、でも、俺は身震いをして。『井の中の蛙』とかいったことわざを思い出しながら。
 ひとつ、深呼吸をして。
「絵、上手いね」
 彼女の物腰は柔らかだった。
 話が合って、俺と彼女は友達になった。
 彼女の描いた漫画を見たいと頼み込んだ末、少し狼狽の色を見せた後、彼女は家に入れてくれた。
 塵一つない、掃除したばかりの彼女の部屋。
 部屋に入ると、ほぼ同時に出されたお茶菓子。
 あまりに用意周到なもてなしに、自分のやりかたが強引だったことに気づいた。
 でも、そんなことより。
 確かに、いま思えば、子供の描いた絵に子供の考えたストーリーだったかもしれない。それでも、俺の受けたショックは大きかった。
 本棚の中に参考書を見つけたときには、彼女との間に大きな隔たりを感じた。
 そして彼女は自分のベッドの上で、抱いた両足にあごをうずめて。
『私、将来は漫画家になりたいんだ』
 続けて、
『――秘密だよ。ぜったい秘密』
「秘密? なんで?」
『恥ずかしいじゃない…』
 恥ずかしい…。
 これが?
 別に、彼女は早熟なわけでも、まして年齢を超越しているわけでもなかった。
 だから、そんな彼女を大人だな、とは思わなかった。
 ただ、凄いと思った。
 今思えば、俺は漫画を描きたかったんじゃなくて、彼女に追いつきたかっただけなのかもしれない。
 それから、何度も彼女の家を訪れ、俺たちは努力の成果を見せ合った。
 何度も、何度も…。


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