いのちの魔法



   3

「…ふう」
 シャーペンを置き、肩を回す。
 少し根を詰めすぎだろうか。
 いや、それでも予定の分はまだ終わっていない。
 俺、要領が悪いんだよな…
「ねー豊ー」
 自主的に洗濯物をたたみながら、すずが呼ぶ。
「んー?」
「明日、交番に連れてってくれるんだよね?」
「ああ…そうか、もう金曜だな…悪いな、拾ったのが他の人ならもっと早く連れてってくれただろうけど」
 親も心配しているだろうし、迷子の子を5日も泊めるなんて、反社会的だとは思う。
「ううん、別に嫌じゃなかったよ?」
 すずはそう言うが、本人が記憶を無くしている以上、その言葉はあてにならない。本当は、一刻も早く家に帰らなきゃいけない立場なのかもしれないのだ。
「こんなにのんびりでいいのかな…」
「なにが?」
「いや…」
 ――と、不意に携帯が鳴った。
「…びっくりした」
 ここに越して来てから初めてその役割を果たした携帯の着信音は、部屋中の空気を波打った。音量が実家にいたときのままだったのだ。
 俺はあわてて手を伸ばす。
「はいはい」
 神野伸一からだった。
『日高先生、原稿できてますか』
「まだ生きてたのか、おまえ」
 俺は懐かしさから、微笑をこぼした。
『久しぶりだな。今、俺どこにいると思う?』
「地球」
『はずれ。お前のアパートの真ん前』
「うそつけ」
『じゃあチェーン外してくれよ。入ってくから』
「鍵はかけてないよ。入れるもんなら入ってこい」
 がちゃ。
 後ろの方で、嫌な気配を感じた。
「お邪魔しまーす…っと、ほんとにこりゃお邪魔だったみたいだな」
「――」
「へー、わー、狭いなー、腕立て伏せしたら崩れそうじゃんかこのアパート」
「………」
「やっ。かわいーねー、名前なんてーの?」
「す、すず…」
「へー、すずちゃん何歳?」
「えと、分かんない…思い出せないから…」
「へー、へー、ふーん…」
 引きつりそうになりながら、笑顔で。
「こら」
「あ、いたの?」
 この白々しさ。
 人なつっこい顔。
 無駄に長い後ろ髪。
 やっぱり伸一だ。
「…なんでここが分かった?」
 友達は多くも少なくもなかったが、浪人したことが気恥ずかしかったため、地元で俺の住所を教えたのはたったの二人だった。一人は実家の母で、もう一人は…
「悪いな、お前の彼女に聞いた」
「美菜は彼女じゃないっ。ただの幼なじみだっ」
「心配してたぜー美菜ちゃん。お前を元気づけることとクレープ一個を条件に居場所教えてくれたんだけど――にしても、まあ、ある意味心配いらなかったな。誰から教えよっかな、あんまり顔の広いやつに教えるとすぐ広まっちゃってつまんないしな」
 伸一の言っているのは他でもない、すずについての幼児監禁疑惑だ。
「伸一。伸一様」
「なんスか?」
「話を聞いてください…違うんですコレは」
「おお、つじつまの合う言い訳も考えてあると。さすがは先生、聞かせてくださいよ」
「いいか? ちょっとホント、真面目に聞けよ」
「その前にお茶は出ません?」
「冷蔵庫の中に缶ビールがあります」
「ごちです」
 ちら、と目をやると、突然の来客にすずは目を丸くしていた。


「…というわけなんだ」
「5点」
「いや、本当なんだって」
「独創性のかけらもなかった。プロットちゃんとやった?」
 すずとの事は洗いざらい話したが、あまりに唐突な話だったので、伸一はたぶん信じてないだろう。
「伸一〜…」
 すがるように言う。
「分かった分かった、美菜ちゃんだけには言わないから。他の奴には言うけど」
「そういう問題でもないんだって」
 さっきから、冷や汗が止まらない。
「じゃあさ、すずちゃんに直接聞いてもいいか?」
「いいとも」
「お、強気。じゃあさ、すずちゃん」
「は、はあ」
 ちゃぶ台に向かい合って座る俺と伸一の間で、すずは肩を小さくして事の成り行きを見守っていた。自分に関係のある話だとは感じ取っているらしい。
「こいつの言ってたのって、全部うそ?」
 さりげに訊き方がずるい。
「え、いえ、その、全部その通りだと…なんの話です?」
「ははあ。迷子になるまでの記憶がないっていうのも?」
「はい」
「弱みを握られてるとかは?」
「え、ええ? たぶんそんなことは…」
「じゃあ、すずちゃんは自分の意志でここにいるわけ?」
「は…はぁ…」
「大丈夫、腕っぷしならこいつに勝てる自信はあるから。本当のこと言ってみなよ」
「は…あの…」
 気の毒である。
「いい加減にしろ、本当だって」
「ちっ、まあいいか。…と、冗談はさておき」
 そう言って、伸一は両手で『置いといて』のジェスチャーをする。
 長い冗談だったが…半分ぐらいは本気で疑ってたんだろう。
「お前。浪人してるそうだな」
「ああ?」
 空になった缶ビールをゴミ箱に投げ入れ、伸一は壁にもたれた。
「どうりで同窓会にも顔出さねえわけだ。あの美菜ちゃんの憂い顔をお前にも見せてやりたい」
「嫌み言いに来たのかよ」
「元気づけに来たんだ」
「だったら有り金だけ置いて消えてくれ」
「冷たいなあ。ここまで来るのにいくらかかったと思ってるんだ」
「知るかい。なんでわざわざ直接来た?」
「分かり切ったこと聞かないでくださいよ、日高先生」
「漫画ならあれから描いてないよ」
「3点」
「本当だ」
「冗談だろ?お前の唯一の取り柄だったろうに」
「よけいなお世話だよ」
 まったく、よけいなお世話だ。
「かーっ、それじゃ俺は何しにここへ来たんだ」
 そう言いながら、伸一は首を振った。長い後ろ髪が揺れる。
「…元気づけに来たんじゃなかったか?」
「そうだ、それもある。描け、豊」
 ――なんだかなあ。伸一は本当に、俺の漫画を見るために直接来たんだろうか。
「今はそれどころじゃないよ。ただでさえ勉強は苦手なんだ、遊んでたらまた落ちる」
 伸一はあれ、という顔をした。
「…へー、お前少し変わったな」
「お前は相変わらずだな」
「当然だ」
 そう言って、伸一は胸ポケットから煙草を取り出す。
「煙草なら外で吸ってくれよ」
「ちっ」
 出したばかりのライターをしまいながら、伸一は後ろ髪を掻いた。
「――すずちゃん」
「あ、はい」
 居心地悪そうに座っていたすずが、肩を張る。
「こいつの描いた漫画、見た?」
 ちらっとなら、掃除の時に見たはずだ。
「あう…その…ごめんなさい…」
 出来心を咎められた子供のように、今までにない表情ですずは首を垂れてしまった。
「?」
 すずは、その表情を俺に向けて。
「その、豊…さんのいない間に、全部読んじゃいました…」
 意外なことを言った。
「全部…?」
 確かに、俺のいない昼間はすずにはたくさん時間があったはずだ。そういう時間の潰し方をする可能性は、十分ある。
 でも、長編から短編まで全部といったら、単行本に直しても三十冊近くはある。
 そんなに読み続けたのは、すずの根気か、それとも…
「面白かったから…気がついたら、全部読んじゃってて…」
「………」
 どんな顔をしていいのか分からなかった。
「良かったな、大好評だ」
「…どっちにしろ、描く気にはなれない。いや…描いたって、もう昔のようには描けないよ」
「作風が変わるくらいどうってことないさ」
「そういう意味じゃないんだ」
「じゃ、なんだ」
「自分に才能がないって、気づいた」
 伸一は小さくため息をついた。
「受験に落ちたショックも大きいんだろうけど、そりゃ自分を卑下しすぎだ」
「そんなことない、受験はきっかけにすぎないんだ。本当はずっと前から、うすうす気づいてた」
「じゃ、いままでは何でやってきたのさ」
 あの言葉があったからだ。
 でも、それはもう、ずっと昔のことで…
 今の俺には関係ない――何ひとつ。
「…うぬぼれてたんだよ」
「だから、なんで」
 俺は少し苛立った。
「別にいいだろ? 人の趣味にそこまで口を出すかな、お前は」
「お前のことだから、出す」
 …そして、短い沈黙。
「――たかが趣味だろ? そんなにムキになるなよ」
 そう俺は言ったが、伸一が引くはずもない。
「ムキになってんのはお前だろうに」
 事実だった。
 正直、きっぱり断言するほど俺の意志は強くない。
 でも、癪だった。
 過去最大の俺の愛読者であり理解者だった伸一に、言ってしまおう。その言葉を。
「俺は、もう漫画を描かない」
「……うわ、きつ」
 伸一の眉がつり上がった――刹那。
 ぽとり。
 今まで視界の外にいたすずの目から、涙がこぼれ落ちた。
「あれ…?」
 今までと同じ姿勢で、同じ表情でこちらを見ている。でも、ただその目は濡れていた。
「すず?」
 顔を赤くもせず、子供なのにしゃくり上げるような泣き方でもなく。
 突いて出たような、突然の涙だった。
「ご、ごめんなさい…なんだろ、これ、どこも痛くないのに…」
 一時的な発作のようなものなのか。すずの涙は、もう止まっていた。
 涙のあとを拭くと、元通りのすずだった。
「どうしたんだろう…突然、どうしても止まらなくなっちゃって…」
「いや…悪かった、今のは取り消すよ」
 結果的には、すずのおかげで前言を撤回することができたわけだが。
「ごめんなさい…なんでだろう…なんで…?」
 困り果てるすずに、俺と伸一はもっと困ってしまった。


「なあ…伸一」
 ただでさえ狭い部屋なのに、伸一は泊まっていった。
 すずを挟んで、異様な川の字で寝る俺たち。
「ん…?」
「美菜は、どこの大学に受かったんだ?」
 高校の時のクラスメートとは、ほぼ絶縁状態にあった。誰が今どこで何をしてるかなんて、社会に出遅れた俺が知るよしもない。
「自分で聞け。連絡先知ってるだろ」
「じゃあ、いい」
「ふん、あまのじゃくだなー。俺は名前一つを頼りにここまで来たのに」
「………」
「考え込むなって。いいんだよ、お前はそれで」
「………」
 伸一は、いい奴だ。
 人当たりも良く、高校の頃も俺より付き合いの範囲が広くて、あちこちのグループに顔が利いた。俺とは中学からの付き合いだが、今になって思う。
 それだけ友達がいて、どうして俺なのか。
 器の小さい俺は、周りに迷惑をかけないようにするので精一杯の程度の人間なのに。なぜ、特別俺と懇意なのか。
「すずちゃん、起きてる?」
「はい」
 はっきりした声で、すずが返事をする。
 すずは寝付きのいい方だったが、今日は伸一のせいだろう、なかなか眠れないでいた。
「こいつの漫画の中で、何が一番おもしろかった?」
「あ、えっと…ほら、女の子が魔法でお鍋とかたんすとかに命を吹き込む…」
「……へえ…。よく見てるもんだ……」
 伸一は感心したように言う。
「あ、他のもおもしろかったですけど」
「それだよ」
「え?」
「こいつが初めて、賞を取った漫画」
「え?そうだったんですか」
 ――ああ、もう。
「だぁっ、最初で最後だよっ」
 いい加減照れくさかったので、俺は口を挟んだ。
「ふん、最後かどうかは分からないさ」
「…えっと…題名、なんでしたっけ」
「いのちの魔法」
 伸一が答える。
「あ、そうそう」
 俺は、二人と反対の方へ寝返りをうった。
 いのちの魔法、か。
 初受賞ということもあるが、他の面でもあれは俺の中で特別な作品だった。


 主人公は、魔法使いの女の子。
 いつもは普通の小学生として学校に通っているんだけど、実は見習いの魔法使いで。
 見習いだから魔法は全然まともに使えないんだけど、その代わりに親から受け継いだ特殊な能力を受け継いでいて、しかもそれが子供の頃から目覚めていて。
 それが、『命のないものに命を吹き込む』能力なわけだ。
 小学校の仲間たちと連れ立って、困っている人をその魔法で助けてあげる、そんな話だった。
 結局、十話ぐらい書きためたはずだ。賞を取ったのは最初の一話のみだったが、当時の自分にはその設定がやけに新鮮に感じられたのだ。
 人の手によって造られた家具にも、俺たちからはひとつズレた視点があって。人間ではない家具でも口があれば話し、耳があれば聞くと。感じる世界は違っても、それは存在だという、そんな事が言いたかった。
 そして主人公はその世界の違う存在どうしを繋ぐ魔法を使える、そんな位置にいる。主人公は気づいていないけど、クラスの中には魔法世界から主人公を偵察しに来たライバルの男の子がいたりとか。心の汚れた、道具に何の執着も持っていない人にはその魔法を見ることができないとか。
 描いていて、楽しかった。思い入れも深い。
 でも、今でもその主人公を鮮明に思い出せるのは…
 主人公に付けた、その名前のせいかもしれなかった。
 彼女は、まだ漫画を描いているんだろうか。


次ページへ  / / 3 /

TOPに戻る