いのちの魔法



   1

 かりかりかり。
 シャーペンの先を目で追いながら。
 たまらず、はあとため息を漏らす。
 時計に目をやると、もう2時だった。
 予定の半分も進んでいない。
「ちっ…」
 俺はシャーペンを半ばやけくそ気味に机の上に放り出した。
 気晴らしに、外の空気でも吸おうと思う。
 そうと決まれば早い。俺はハンガーから外した上着に袖を通した。


 風はあったが、真夏のこの季節、外は寒くなかった。
 むしろ、夜風が心地よい。
 アパートの2階からなるべく静かに外に出る。
 自販機が近くにあるので、そこまで歩こうと思った。
 ふと地面に、同じアパートの誰かが捨てたのだろう、週間の漫画雑誌が捨てられているのを見つける。
 ふん…。
 漫画、か。
 もうずいぶん読んでいない。きっと俺の知らない間に、いくつかの連載は始まったり終わったりしているんだろう。
 といっても、まだ半年も経っていないか。
 俺が漫画を描くことも読むこともやめたのは、大学受験に失敗したあの日からだ。
 遅い。
 もっと早く気づくべきだったんだ。
 昔、佳作を1つとったくらいで…
 自分に才能があるって、そう過信して…
 いつか漫画家になれるなんて、不鮮明な将来を夢見て…
 やめよう。
 今はとにかく勉強だ。俺の学力で2浪することになったら、もはや俺の人生終わったと言っていい。
 細い道の角を曲がると、自販機の明かりが見える。
 夏場は、自販機の明かりに群がる虫が鬱陶しい。
「――あれ?」
 明かりの側に、虫以外にも何かがいる。
「っく…ぅえっぐ…」
 げ。
 子供だった。
 子供が泣いている。
 ――しまった…
 かなりの確率でこの子は、迷子。
 息づかいを聞いてか、その子供は顔を上げ、幼い涙目でこちらを見ていた。
 時々いやになるのは、自分の中途半端な優しさだ。
 どこかのヒーローみたいに、関わった女を最後まで守り抜くような覚悟はないくせに、困ってるやつを見ると野次馬根性よろしく、助けてしまいたくなる。
「どうしたんだ?」
 明かりの下にしゃがみ込んだまま、その子供――女の子みたいだ――は上目遣いに俺を見上げる。
「分からないの…どこから来たのか…」
 泣いているわりには、意外とはっきりした言葉だった。俺は少しほっとする。会話の成立しない子供と対面するのだけは勘弁だ。
「迷子か。俺は日高豊。君の名前は?」
「分かんない…忘れちゃったの…」
 おいおい。
 見た目、小学生の中ごろ…てとこか。自分の名前を忘れるような歳ではない。
「…ま、なら交番に行きな。なんとかなるだろ」
 言いながら、俺は虫を払いながら缶コーヒーを買う。疲れていたので、甘いやつにした。
「交番…どこ…?」
 よけいな事を言った、と思った。
ここから交番は、かなりの道のりがある。交番とは反対方向に位置する俺のアパートまで戻って、自転車を出した方が早いぐらいだ。
「あー…けっこう遠い――かも…」
 ひしっ。
 突如、名のない女の子は俺の上着の裾を掴んだ。遠慮のない、子供の全握力が服を引っ張る。
 緊張の糸が張りつめたようなこの顔を見る限り、『放せ』とか言って振りほどいたらきっと大声あげて泣き出すんだろう。
 俺は深くため息をついた。
 困った。
 予備校にバイトで、俺に空き時間があるのは深夜ぐらいしかない。
 しかもここに越してきてまだ数ヶ月、迷子の子を頼めるような気の知れた知り合いも近所にはいない。
 天を仰いで、少し考える。えーと。
「…明日も予備校で忙しいから、交番に連れて行けるのは今度の土曜になるよ? それでもいいね?」
 迷子のこの子からすれば早く親元に帰してもらいたい一心だろうが、日々忙しい俺の意志も汲んでもらおう。
 女の子は素直にうんうんと高速で首を縦に振り、さらに強く裾を引っ張った。
 今日はまだ月曜なので、昼の時間帯がフリーになるのは――それだって本来は勉強に費やすべき時間なのだが――5日後となる。それまでの食費とかは、さすがに保護者が出してくれるだろう。
 捨てて逃げたりはしないと何度言っても、その子はアパートに着くまでずっと俺の裾を掴んで離さなかった。


 彼女の着ていた服はかなり汚かったので、とりあえず俺の服から無難なものを選び着せることにした。
 風通しの良い袖広のシャツを持たせ、少し臭い彼女は風呂に入れておき、その間に俺は彼女の持ち物を点検した。
 といっても、彼女の持ち物は安物のウエストポーチだけだったが。
「お…」
 その中身は空だったが、内側に刺しゅうを発見した。
 ただ二文字、『すず』とあった。
「…すず?」
 名前だろうか。ひらがなで合っているのかどうかも分からない。
「あ、あの…」
 服をたたみ終わると同時に、彼女が服をだぶつかせながらおずおずと部屋に入ってきた。腰まで下ろした長い髪は洗うと綺麗で、いかにも育ちが良さそうだった。
「この服が乾くまでの辛抱だから、服が大きいのは我慢してくれよ」
「ありがとうございます…」
 ぺこり、と深く一礼。
 礼儀正しい。
 お金持ちの娘とかだったら、謝礼も弾むかもしれない。俺はまんざら無理のない想像を巡らせた。
 ベンツから、ヒョウ柄のコートを身にまとった婦人が出てくる。付き人はただ一人、一見細身でマスクのいい青年。ロレックスの腕時計に目をやり、『お待たせしました』と澄んだ声で一礼。謝礼をせがむ俺を制し、『ひとまず私の家へお越しください、お礼の件はゆっくり話したいですわ…
 …と、いや、まあ、それはともかく。
「服の裏に刺しゅうがあったんだけど…名前は『すず』でいいんだね?」
「すず…?」
 天井の蛍光灯を見上げながら、少し考えた後。
「――うん、確かそんな名前だったかも」
 と言った。
「OK。じゃあすず、予備校とかバイトで俺はここにいないことが多いけど――静かに留守番できるな?」
「うん…」
 満面の笑みで元気よく…とはいかないが、まずまず信用して良さそうな返事。
 対して手間のかからない子みたいだし、5日くらいならなんとか手に負えそうだ。

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